砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

逆に「学力が低いから貧困に陥りやすい」となら言えるのはなぜなのか:知識社会の視点から(貧困問題と学習能力の相関性④)

「貧困が原因で学習機会に恵まれていないがために学力が低い」のではない。
貧困か否かを問わず学習機会はきちんと確保されており、その学習機会を提供する義務教育はひとまず正常に機能している。
学力の低さは、貧困問題に還元するよりも"遺伝と学力の因果関係"の問題として捉えたほうが正確に把握できる。
なぜなら"遺伝と学力の因果関係"は統計的に証明されているからだ。

以上が前回までの考察の結果明らかになったいくつかの事実になるが、効果的な貧困対策事業についての具体案を提示するには外堀を埋める作業がもう少し必要になってくるため、今回も引き続き慎重に議論を積み重ねていくことにしたい。
「貧困だから学力が低い」という因果関係は間違っているか、そうでなければ少なくとも短絡的=擬似相関であり、むしろ統計的に証明されている"遺伝と学力の因果関係"を前提に置いて出発すべきなのは分かった。

そこで自ずとつぎの疑問が湧いてくるだろう。
すなわち「学力が低いと、なぜ貧困に陥りやすくなるのか」、これである。
とはいえ、この疑問に答えるのはそう難しいものではない。
一言でいうと、現代が"知識社会"であるがゆえに学力が低いと貧困に陥りやすくなるのだと考えていい。

知識社会と知能社会

ここで、知識社会を論じる前に、混乱を招かないよう、まずは言葉の定義からしておきたい。
「知識社会」という語句はややミスリーディングで誤解を生みやすい表現であり、一般的には、知識の多寡によって個々人の社会階層が決定づけられる社会が「知識社会」だとイメージされている。
簡単にまとめると、多くの知識を持つ者が富み、知識を持たない者が貧しくなる社会のことを「知識社会」だと認識している人が多いのだ。
しかし実際にはそうではなく、知識が多いか少ないかではなく、むしろ知能が高いか低いかによって社会階層が決定づけられる社会を「知識社会」と呼んでいるのが感覚としては近い。
この場合、知識とは「ある物事について知っている事柄」を指し、知能とは「知識を運用する能力」のことだと考えれば分かりやすい。
いまの時代において、知識が多くてもその運用法を知らなければ社会的には役に立たないが、逆に、そこまで知識はなくとも、効果的な運用法を知っていれば、社会的には成功をおさめやすくなっており、したがって本来であれば、現代社会は「知識社会」ではなくて「知能社会」と定義すべきだった。
そう定義すべきところを、これまでずっと「知識社会」と呼んできたために、いまさら「知能社会」という語句を使うわけにもいかず、混乱を生じさせないよう慣例にならってぼくも「知識社会」と呼ぶことにしたい。
より厳密性を求めると、1970年代の高度経済成長の終焉と二度にわたるオイルショックが原因で起きた戦後初のマイナス成長を経験する前の「近代過渡期」が「知識社会」で、それ以降の「近代成熟期」が「知能社会」と定義づけられる。
「知識の多寡」から「知識の運用能力」へと重要性がシフトしたのは、近代過渡期から近代成熟期へと社会が移行したとき、すなわちグローバル社会が到来したさいに社会的流動性が過剰に上昇したためである。
あるいはIT革命以降コンピュータテクノロジーが発達そして大衆化し、記憶領域を人間ではなく機械が担うようになったことによっても「知識社会」から「知能社会」への移行を見極めることができる。
このあたりの話は、以前「宿題ばかりしているいまの子どもたち」のなかで"21世紀型能力"について詳述したさいに言及しているので、もし興味があればそちらを参照してほしい。
繰り返すが、本エントリでは、慣例にならって「知識社会」のほうを語句として使用する。

知的能力の高い人に特権的な価値を与える知識社会

話を戻す。
知識社会であるがゆえに、学力が低いと貧困に陥りやすくなっているのが現代の社会構造である。
それでは、知識社会とは具体的にどのような社会を指すのか。
一言でいうと、ヒトのさまざまな能力のなかで知的能力(特に言語運用能力と論理数学的能力)に特権的な価値を与えている社会のことを指し、そのような社会では知能の格差がそのまま社会階層を序列づけ経済格差をもたらすようになる。
したがって、知的能力の低い人が経済的に成功する可能性は、学力以外に何か突出した才能でもないかぎり、ほとんど難しい。
以下のグラフを見てほしい。

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このグラフは、世帯収入と学力の関係を示したグラフだが、世帯収入が低ければ低いほど学力も同様に低くなっているのが見てすぐに分かる。
ただし、前回述べたように、このグラフを見て「貧困だから学力が低い」と短絡的に因果関係を逆にして読み違える人が多く、そのため沖縄県内の各自治体がおこなう「貧困対策事業」の方向性も、この読み違えた方向に沿って進むようになってしまった。
このグラフは「貧困だから学力が低い」ことを示すグラフではなくて、「学力が低いから貧困に陥りやすい」ことを示すグラフだと捉えたほうがより正確である。
したがって、「貧困対策事業」として取るべき対策も、本来であれば変えなければならない。

知識労働と単純労働に二極化していく知識社会

クリントン政権時に労働長官を務めたロバート・ライシュによれば、知識社会では、知識労働(スペシャリスト)単純労働(マックジョブ)に就く層の人に二極化していき、事務・サービス・販売関連業務に従事する雇用勤労者(主にサラリーマン)や技術者あるいは自営業者のような中間層は没落していく命運をたどる。
その理由は、知識社会がグローバル社会そしてIT社会とほぼ同義語である点を考えれば分かりやすい。*1

まずグローバル社会のほうから見てみると、新興国に多数存在する人件費の安い労働者が、これまで先進国の労働者が担っていた仕事、特に技術職や製造業を代替するようになったことで、先進国でこれらの職に就いていた人たちの仕事が奪われていく。
つぎにIT社会のほうから見ると、事務処理を主とするサラリーマンの仕事はコンピュータが徐々に担うようになってきたのは周知の通りで、今後はAIの登場でその傾向が加速度的に一層高まっていくと予想されている。
見かけのイメージとは裏腹に、実はサラリーマンの仕事は知的でない(というより明らかに不必要な)ものが多く、知性を必要としない以上、AIがサラリーマンの仕事の大半を代替するようになるのも無理はない。

こうして、1970年代前半まで続いた高度経済成長によって大量に生み出された中間層は、新興国から押し寄せる低賃金労働者と急速に進歩する機械に仕事を奪われ没落していく。
残る仕事は、上層に属する企業経営者や投資家あるいはIT・金融分野で働くクリエイティブクラスのニューリッチと、下層に属するマックジョブのようなマニュアル化された単純労働や現代の重労働の筆頭格にあたる介護職や建設業のような常に人手不足の仕事に集約されるだろう。

このように、中間層の没落化傾向により大卒でも下層に落ちる危険性が高まっている時代が知識社会の特徴なのだから、学力が低い人たちが下層に落ちる危険性はそれ以上に高いに決まっていることは想像に難くない。
それどころか貧困層に落ちる危険性すら十分にあるとさえ言える。*2
新興国からの労働者が今後ますます増えていけば、彼らは中間層の仕事だけでなく下層の仕事にも流入してき、その結果賃金の下方圧力が働くことで、介護職や建設業など常に人手不足の職種であっても賃金がなかなか上がらないという現象が生まれる。
実際、新興国の労働者が本格的に流入してくる前のいま現在の時点においても、人手不足なのに賃金が上がらないという現象は国内のいたるところで起きている。*3

貧困問題を安易に教育で解決しようとしないこと

以上知識社会のアウトラインをたどってみると非常に暗澹たる気持ちにさせられるが、知識社会のこの不可逆的な流れを変えることは人間の力ではできない。
かろうじてできることは、下層や底辺層に落ちた人たちに対しセーフティネットを用意することくらいだが、高齢化にともなう社会保障費の増大などの問題を考慮すると、そのために必要な財源を確保するのはそう簡単にできそうにないことは誰であってもすぐに分かる。
ここでひとつだけ言えることがあるとすれば、それは、この貧困問題を教育に短絡的に結びつけて安易に解決しようとしないことだ。
知識社会において下層や底辺層に落ちないために必要なことは、確かに「知識を効果的に運用する能力」を身につけることにあるのは間違いないが、だからと言って全員が全員、教育を受ければ「知識を効果的に運用する能力」を身につけられるわけじゃない。
ましてや、遺伝的に学力が低くなる可能性が高い人たちに対して、「貧困対策事業」と銘打ち、学習機会を無料で提供することで学力を上げようとし、知識社会のなかで少しでも貧困に陥らないよう対策を取ることに一体どれだけの意味があるだろう。
「やってみないと分からない」というのは歴史から何も学んでいないことを単に露呈しているに過ぎない。
1960年代半ばにアメリカのジョンソン大統領が打ち立てた「偉大なる社会」構想("Great Society" program)のうちのひとつとして実施された貧困対策がたどった末路を思い返すだけでそれが分かるはずだ。
歴史に学び未来に活かすことができなければ、どれだけ崇高な理想を掲げ、どれだけ耳障りのいい言葉を並べ立てても、待ち受ける結果は既視感に包まれた悲劇の繰り返しかもしれない。
本来為すべき施策は、知識社会であるにもかかわらず、学力が低いままでも、「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることができるよう社会設計を整えることにあるのであって、科学的検証に耐え切れない教育的解決に頼ることにあるのではない。
次回は、そのために取りうる道筋を考えてみたい。

(続く)

*1:物事を大局的に見るためには社会を構造的に捉えることがとても重要であるが、以前「宿題ばかりしているいまの子どもたち」のなかで21世紀社会を特徴づけたさいに、成熟社会/グローバル社会/情報社会=IT社会と3つの側面から記述したのと同じように、ここに知識社会を加えても問題ない。

*2:下層が単にお金がなく貧乏ではあってもそれなりに生活できるのと比べてみると、貧困層は、必要最低限度の生活を送ることさえままならない状態のなかで生きる人たちのことを指す。

*3:その理由は、特に団塊の世代の引退後に顕著になってきたが、定年退職した高齢労働者が非正規雇用として単純労働や肉体労働に従事するようになったからである。