砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

学問的関心の出発点となった『まぼろしの郊外』(宮台真司)を改めて読んで

ぼくの学問的関心の出発点が社会学者である宮台真司先生の『まぼろしの郊外』だったことは以前書いた。
なぜこの本にそこまでの衝撃を受けたのかといえば、宮古で18年間育ってきたぼくが当たり前のものだとと当然のごとく見做していた宮古的(もしくは沖縄的)人間関係が、東京ではまったく当たり前のものではなかったことに、天地がひっくり返るほど驚いた経験があったからだ。
この本は、都市的なものと地方的なもの、もう少し抽象的に言えば、近代的なものと前近代的なものとのあいだに横たわる差異を、宮台先生がフィールドワークを通じて実際に関わった人間を媒介として描き出そうとした点に価値がある。
地方出身者であるぼくの、東京に対するなんとも言いようのないあの違和感を、鮮明な言葉で的確に言語化してくれたのが『まぼろしの郊外』だったのだ。
「経験に裏打ちされた学問知にしか学びはない」とはよく言ったもので、それ以降、郊外論を中心とした都市社会学という学問領域に次第に興味を持ち始めるようになっていく。

都市的空間の匿名性地方的空間の記名性
「仲間以外はみな風景」である都市と「仲間の仲間もみな仲間」である地方。
都市と地方の差異を際立たせるために使われるいくつかの概念的な用語に本書を通して触れることで、社会事象を理論的に分析することができるのだと初めて知ったときの驚きは今でも忘れられない。
1990年代後半に援交少女論を展開し一躍世間の注目を浴びていた宮台先生のこの本は、地方に住む女子中高生の性の実態ひいては人間関係を含め実存的な問題に光を当てていたのだが、そこに登場する少女たちの存在を知ってからは、地元宮古に帰った際、あるいは地方都市の典型である沖縄本島に行った際に、ぼくは、そのあたりにある何気ない風景を見ては、本書に出てくる話を思い出しては空想に耽っていた。
そこに書かれてあるような少女たちの人間関係や実存的な問題が、事実として存在するように思えたからだった。
いま振り返れば、宮台先生の90年代の仕事は、若者を研究対象とする多くの者にとって、大きな道しるべになったのだろうと思う。
2000年代以降に出てくる若者論や郊外論、あるいは性研究・実存研究の多くは、明らかに彼の影響下にあると思われるようなものが多いからだ。
『まぼろしの郊外』を読んで以降、別のテーマのものも含め、宮台先生の本は何冊も読んできたが、この本を読んだ際に受けたような衝撃的な読書体験は、後にも先にもこれだけしかない。
読んだ回数で言えば『14歳からの社会学』のほうが明らかに多く、社会学の入門書として適しているのも『14歳からの社会学』であることは間違いないとは思うものの、ぼくの場合、読後の衝撃度合いを比較すれば圧倒的に『まぼろしの郊外』に軍配が上がる。
裏を返せば、ある程度学問的な知識を吸収した状態で読んだからこそ、『14歳からの社会学』に触れたときの衝撃の度合いはそんなに大きくはなかったが、『まぼろしの郊外』は、ほとんど何も知らなかった時期に読んだだけに、衝撃の度合いが何にも増して大きかったのだと言っていい。

最近、久しぶりに読む機会があったため、流し読み的に本書を手に取ってみると、このあいだまで3ヶ月かけて書いてきた「宿題ばかりしているいまの子どもたち」で何度も繰り返し使ってきた用語に出くわし、ぼくが宮台先生から受けた計り知れない影響を改めて感じずにはいられなかった。
「宿題ばかり〜」のなかで、宮古の「ヤンキー化」した中高生は「学校化社会」によって生み出されたと書いたが、『まぼろしの郊外』には、社会の「学校化」によって巷の女子中高生が、家でも学校でも地域でもない第四空間=都市的現実=ストリート空間(ここでは売買春がおこなわれる場)に流れ出るようになったと書かれてある。
つまり、1990年代の援交少女やデートクラブに通う主婦たちが生み出された原因が「学校化社会」にあると言っているわけで、ぼくの思考形式がどれだけ彼の影響を受けているのかここからもよく見てとれる。
ただ、宮古が離島である点を考慮すると、社会がどれだけ「学校化」しようとも、宮古で援交少女やデートクラブ主婦が出てくることはあり得ないため、本書の分析をそのまま当てはめることは難しい。
実際、そのような女子中高生や専業主婦が現れることはなかった。
その代わりに、一部の男子中高生と同じように、女子中高生のなかにも「ヤンキー化」する子が現れるという興味深い現象が生まれる。
言ってしまえば、本土に住む女子中高生が「女性」性を売春という形で売りに出していたのとは対照的に、「学校化社会」の枠を逸脱してしまった宮古の女子中高生は自身の「女性」性にあえて頼らずに、むしろ「男性」性を取り入れながら「ヤンキー化」した結果、第四空間に乗り出して「学校化社会」に抵抗しようとしてきたのだと見なすことができるのである。
初めて読んだときには気付かなかったこの点に思い至ることができただけでも、久しぶりに本書を手にとった価値があった。

さらにもうひとつ。
「宿題ばかり〜」では、学校化社会によって生み出された結果については十分検討してきたのだが、そもそもなぜ「学校化社会」が生み出されたのかその原因に関してはまったく触れていなかったということに本書を読んで気付かされた。
ただし、もし仮に、書いている段階で言及する必要性に気付いたとしても、その原因が一体何なのか当時のぼくには分からなかっただろう。
学校と塾の外に広がる地域と家族の状況をまったく考慮していなかったからだ。
『まぼろしの郊外』では、第一段階の郊外化=団地化→「地域共同体の崩壊」と「家族への内閉化」が1955年から1970年代後末にかけて起こり、1983年から現在まで続く第二段階の郊外化=コンビニ化→「家族の崩壊」と「第四空間化」を経たあと、家族的コミュニケーションの空洞化の埋め合わせの方法として、学校的価値観を学校の外つまり家庭内に持ち込まざるを得なくなった結果、「学校化社会」が誕生したのだと述べられており、この分析は、卓越した思考力なしには為しえないほど刮目すべき分析だと言うほかない。
フェミニズムを研究する社会学者の上野千鶴子が自身の著書『サヨナラ、学校化社会』のなかで、この言葉が広く知られるようになったのは宮台先生によると書いていたのも、あながち誇張された表現ではないと思う。
確かに、そう思わせるくらい説得力のある分析を、彼は展開していたのである。

『まぼろしの郊外』に出会って以降、ぼくの大学生活は大きく変わった。
これまでにも増して、より一層読書にのめり込むようになり、人付き合いや学業に充てる時間よりも読書に費やす時間のほうが多くなっていった。
といった話は以前書いたのでここでは割愛するが、いずれにせよ、ぼくの学問的関心の出発点が宮台先生の『まぼろしの郊外』にあることは、自分自身の原点を随所々々で振り返るにあたって、その都度再確認しておくべき事柄になるだろう。