砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

21世紀社会に生きる子どもたちのための処方箋:宿題の廃止とテストの削減と校則の緩和(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑬)

まず、一番初めにしなければならないことは、「宿題の廃止とテストの削減と校則の緩和」である。
前回までの記事で暗示的にでも理由をいくつか挙げてきたが、ここで改めて明示的に挙げると、宿題を廃止したほうがいい理由については3つの点に要約することができる。
1つ目は、宿題の内容が、単に記憶量を問うだけで思考力をあまり必要としない穴埋めゲームでしかなく、それと同時に漢字ドリルや計算ドリルのように機械的に反復練習をすることで事務処理能力を高めることに役立つものでしかないからである。
2つ目は、21世紀型能力を鍛えるには早めに学校的価値観を相対化しなければならず、「学校化社会」に染まりきらないためにも、学校との接点をなるべく少なくする必要があるからである。
家に帰って真面目に宿題に取り組む行為は、授業が終わって学校の外に出たのに、相変わらず「学校化社会」のなかにとどまっている状態にあることを意味している。
これでは、事態対応力もしくは状況処理能力が求められる流動的な21世紀社会では「食っていく」ことができない可能性が高くなってしまう。
宿題をしても、批判的思考力も対話力も自己表現力も身につけることができないだけでなく、むしろそうした21世紀型能力の養成の妨げになるとすら言えるため、宿題は無益どころか有害とさえ言えるのではないだろうか。
さらにもう一点付け加えると、宿題や家庭学習を毎日課されることで、勉強ができない子どもたちが、学校のなかで自己肯定感を剥奪されているのではないかと以前分析したように、宿題を廃止することで、たとえ勉強ができない子であっても、学校のなかで自己肯定感を失わずに、周囲の子たちと学校生活をともに最後まで過ごす道筋を残していけると期待が持てるからである。
自己肯定感を失わなければ、中学卒業後に学校教育をドロップアウトする生徒は減っていくだろうし、高校に進学後中退せずにちゃんと卒業できる生徒も増えるだろう。
結果的に「ヤンキー化」する中高生の数が減ることで、中高生の二極化が避けられ、分厚い中間層を維持し続けることにもつながっていくはずだ。
あらゆる二極化を推進するグローバル化社会に少しでも対抗する手立てを取るために、打てる手はすべて打っといて無駄ではないと僕は考える。
グローバル化社会自体には賛成する立場を取るが、グローバル化社会がもたらすマイナスの面まですべて肯定するつもりはなく、良い面を享受しつつ、どうにか悪い面を抑える努力はしていきたい。

次にテストの削減について。
宿題を廃止する理由と同じだが、実力テストと期末テスト以外のテストをすべて廃止にして、学校との接点をなるべく減らすようにしていく必要があるだろう。
実力テスト・中間テスト・期末テストと学期ごとに3回も試験があると常にテスト対策のための勉強に時間を費やさないといけない羽目になるからである。
しかも、この3つのテストのほかにある漢字テストや月例テストなどの小さなテストまで含めると、学期期間中ずっとテスト勉強しっぱなしというとんでもない状態が生まれてしまう。
いまの中高生は現にこの状態に陥っていると見て差し支えない。
もし、実力テストと期末テスト以外のテストを削減することができれば、中高生は普段テスト勉強のほかにもっと時間を使うことができるようになり、結果として心にゆとりを持ちながら学校生活を送ることも可能となる。
そしてテストの点数では、自分に対する評価あるいは他者への評価が影響を受けにくくなり、勉強できる子だけが必ずしも優れた人間ではないとの認識の拡散につながっていくことも期待できる。
「学校化社会」の弊害は、テストの点数や学校での生活態度が学校の外でも評価基準になり続ける点にあるが、テストの大幅な削減は、この弊害を取り除き、20世紀の遺物である学校的価値観をいかに相対化できるかという点に眼目を置いている。

次に校則の緩和について。
上記した2つの提案と同じ効果を狙っている。
校則の厳罰化は、生徒の自主性や創造性を押し潰して、まるで軍隊のように規律化することを目的として行なわれているが、その理由は、先生に逆らったり口答えするような生徒を一掃して、先生に従順な生徒のみで学校を構成することで秩序を守るためである。
確かに目に余る言動であれば生徒指導をする必要があるとは思うものの、それが行き過ぎたところまで来てしまったのが現在の状況と言えるだろう。
しかし、そこまで過度に厳罰化しないと秩序が保てないかと言えばまったくそんなことはなく、人として守るべき最低限のルールだけを押さえておけば特に問題はないはずだし、僕の目には、校則の厳罰化は手段と目的が転倒しているようにしか見えない。
もちろん先生自身がその点に気づくはずもなく、自分のおかしな指導を正当化するための隠れ蓑に「校則」という安易な方法を利用し続けてきたのである。
校則の厳罰化により先生の指示に素直に従うように教育された人間は、学校を出たあと社会生活を営む際に、誰かの指示やルールなしには行動できないようになる。
自分の頭で考えることなどせずに、先生の言うことが正しいと信じて、その指示通りに動いてきた歩兵のような人間が、どうして事態対応力や状況処理能力が求められる流動的な21世紀社会で生き抜いていくことができようか。
校則の厳罰化は、受動的な指示待ち人間を生み出す作用を持っているのである。
まったく効果的でない校則を廃止し、人として踏み外してはならない最低限の水準にまで校則を緩和することで、学校の秩序形成をもう少し生徒の自主性に頼ってみる。
社会生活を送るうえで何が良くて何が悪いのかについて生徒自身に自分の頭で考えてもらい、もっと言ってしまえば過ちを犯す自由を認めるためにまず必要なのは、生徒の自主性を尊重することである。
自分の意思で取った行動でしか試行錯誤ができないのは明らかであり、試行錯誤の機会を奪ってしまうのが校則の厳罰化である以上、逆に緩和していくのが生徒にとって有益になるのは間違いない。
自主性が認められるようになれば、自分たちの意思で各種イベントなどの学校行事を企画・実施したいと考える生徒が増えてくることも期待でき、その準備過程で生徒同士が先生抜きで民主的に話し合ったり、段取りや運営まですべて生徒主体で行なうようになってくれれば、自ずと社会性が身についてくるだろう。
校則の厳罰化は、それと真逆の効果しか生み出さない。

以上、「宿題の廃止とテストの削減そして校則の緩和」について思うところを縷々述べてきた。
この3つの提案に共通する点をひとつ挙げるとすると、それは「学校との接点をなるべく減らす」ことにある。
学校的価値観を相対化し、「学校化社会」の枠のなかから出て、放課後もしくは休日に、自分のなかにある好奇心にしたがい自主性を持ちながら、自分がいま一番したいと思うことを存分に楽しむ時間をなるべく多く確保することがきわめて重要だからである。
納得がいくまで自分が本当にしたいと思うことをし続けること。
自分の意思から生まれる行動によって培われた経験ほど学びになることはほかになく、21世紀を生きる小中高生にとってそのこと以上に大事なことは何もない。
その学びが学校の勉強である必要はどこにもない。
また、友だちと外で遊んだり恋人とデートしたりスポーツに興じたり趣味に没頭したりと何でもいいが、学校との接点が減ることで、先生を始めとした大人抜きでの子ども同士の関わり合いが増えていき、宿題やテスト勉強をすることよりも遥かに社会性を育めるようになるのは明らかである。
21世紀型能力を一言で表すと「社会性にフォーカスした非認知的な能力」のことを指すと以前書いたように、21世紀においては社会性がきわめて重要になってくる。
宿題やテスト勉強は教科書やノートあるいはプリントを相手とするため社会性が育まれることなど毛頭ありえないが、友だちと外で遊んだり恋人とデートしたりなどリアルな人間を相手にした場合には、社会性が身につくのは当然の話だ。
しかも、社会性を身につけることは、勉強ができるできないまったく関係がなく、宿題を廃止しテストを削減することで、勉強で劣る子や「ヤンキー化」した中高生が、21世紀型能力を獲得するチャンスを得る機会が格段に増えていくのは間違いないだろう(「高学歴化」した中高生の話は次回)。
もうここまでくれば分かるように、僕がなぜ学校との接点をなるべく減らすべきだとこんなにも力説するのかと言えば、1つ目の理由は、先ほど述べたように「学校的価値観を相対化し、自分が本当にしたいことをするための時間をしっかりと確保する」ためであり、2つ目は「学校との接点が減ると逆に子ども同士の接点が増えるため、社会性を育む機会に恵まれる」からである。
社会性のない人間が21世紀を生き抜いていくのはきわめて困難だと考えたほうがいい。

最後に、予想される反論についてあらかじめ答えを用意しておく。
宿題を廃止したりテストを削減したりすると、勉強する機会が失われると考える人がいるかもしれないが、それは違う。
塾に通えばいいだけの話だからだ。
ほかの子たちが、友だちと外で遊んだり恋人とデートしたり家でゲームしたり映画観たり楽器を演奏したりなど、自分が本当にしたいと思うことをしているのと同じように、本当にしたいことがもし勉強ならば、放課後塾に通ったりあるいは自宅で自主学習に励んだりと、自分が好きなだけ勉強すればいい。
もしくは放課後学校に残って分からない問題を先生に質問したり個人的に課題をもらうなど、宿題やテストがなくても勉強できる工夫はたくさんある。
宿題やテストのような強制力が働くものがないと勉強できないと考える人は、そもそも最初から勉強したいと本気で思ってなどいない。
本当に勉強したい人は、誰に言われなくとも勝手に勉強するからである。
僕は別に、勉強する機会すべてを奪ってしまうような提案をしているわけではなく、宿題がなくても学校教育において必要な知識は明らかに授業内ですべて学べるため、それ以上のことは強制するべきではないと言っているのであり、それ以上勉強するかしないかは生徒一人ひとりの判断に任せるべきだと言っているのである。
勉強を強制することよりも自主性を尊重し社会性を育むことが、真の意味で子どもたちのためになるのだと考えれば、宿題を廃止することもテストを削減することも校則を緩和することも僕のなかではすべて合理的につながっている。

(続く)