砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

「先進化する都市と荒廃化する地方」に二極化する21世紀社会(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑫)

「宿題ばかりしているいまの子どもたち」も今回で12記事目を迎え、いよいよ終わりが見えるところまでやってきた。
「批判的思考力」「対話力(コミュニケーション力)」「自己表現力(情報発信力)」と、直近3回にわたり、21世紀型能力について、かなりの文字数を使って書いてきた理由は、これらの能力がなぜ(20世紀ではなく)21世紀に必要な能力なのかを論理的に示すためだった。
20世紀と21世紀の違いがどこにあり、21世紀とはいかなる時代なのかを社会構造的に読み解いていけば、僕が挙げたいくつかの能力が、なぜ21世紀において特に求められる能力なのか理解できるはずだと考えたのである。
ここまで見てきたように、21世紀を表す仕方はいくつかあり、成熟社会、グローバル化社会、情報化社会などさまざまな方面からひとつの時代を観察することはとても有益なことで、このように複眼的に物事を見ていくこともまた、21世紀が単線的な生き方ではなくて複線的な生き方が必要になる時代であることを考慮すると、21世紀型能力のうちのひとつに数え入れてもいいだろう。

さて、ようやく終わりが見えてきたこともあり、今回からは話を本筋に戻して結論に近づけていきたいと思う。
過去3回にわたり21世紀型能力がなぜ必要なのか書いてきたのは、その直前のエントリーで、宮古の小中高ではいまだに20世紀的価値観のなかで学校教育がおこなわれており、そのために、学校に通う子どもたちにとってほとんど意味がないようなことばかりが横行している現状を危惧したからだった。
おさらいしておくと、20世紀的価値観とは、学校的価値観が学校の外にまで蔓延した「学校化社会」において子どもたちを評価するための基準となる価値観のことであり、重箱の隅をつつくような些細な知識まで含めて記憶量がどれだけあるのかを競い合ったり、あるいは数多くのパターン化された問題を時間内にどれだけ処理できるか事務処理能力を競い合ったりなど、IT化やAI化が進む21世紀では機械が代替してくれるような能力の獲得に重きを置いている価値観のことを指す。
それだけでなく、学校の先生に従順に従い、宿題や家庭学習を真面目に頑張ったり、校則を固く守ったりなど、いかなる規律もはみ出さないで、品行方正な生活態度で大人にいい顔できる人が一番高い評価を受けることができるのも、学校的価値観すなわち20世紀的価値観は内包している。
これらの所業がいかにバカらしく、ましてや21世紀においては、むしろ不利益を被る要素になり得るものであると説明したかったがために、これらとは対照的な能力として過去3回にわたり21世紀型能力について述べてきたのである。
「学校化社会」によって生み出された「高学歴化」した者と「ヤンキー化」した者とに子どもたちが二極化した結果として、社会が実質的に分断されてしまい、一見、「高学歴化」した者には特に問題があるようには見えなかったものの、実は彼らとて20世紀的価値観の信奉者であることに変わりがない以上、成熟社会、グローバル化社会、情報化社会となった21世紀においては生き抜いていくことができなくなるということも、分析の結果浮かび上がってきたひとつの事実だった。
むろん「ヤンキー化」した者は言うまでもない。
20世紀的価値観のなかで生きる点においては同じ穴のムジナである「高学歴化」した者も「ヤンキー化」した者も、両者問わずどちらにおいても、21世紀型能力を獲得することはいまや急務の課題である。

以前AERAの記事を取り上げたように、先進的な都市部の学校では、21世紀型能力の養成に向けた取り組みが盛んに行なわれていると紹介したが、僕の故郷である宮古含めて地方が、ここで遅れを取ると、都市と地方のあらゆる格差はますます広がっていくばかりであり、そうなってしまうと地方が荒廃していく命運は避けられそうにない。
都市と地方の関係性や格差については別途記事を改めてまた書きたいとは思っているが、ここで少しだけ言っておくと、残念ながら地方創生や地域振興はまやかしの言葉であり、地方が活気を取り戻すことは今後二度とないと思われる。
経済的に見れば、今後の日本は東京や大阪などの大都市圏がその他多くの地方を支えていくしか道はなく、都市と地方の両者は、まるで同じ国とは思えないほどに社会環境も価値観も何から何まで共有できるものを持っていないという段階にまで進んでいくだろう。
驚くべきことに、一国のなかにグローバル都市と発展途上国が並存するかのような状況が生まれるのである。
21世紀が「都市の時代」だと言われる理由はここにある。
いま述べたことは、社会構造的に見て避けられない将来的な事実であることは間違いがないだろうから、宮古含めて地方が荒廃していく命運に楔を打ち込もうとするのは、正直なところ、あまり意味はないと個人的には考えているが、それでもなお、もし何か対策を取るならどうすべきかについて、仮設的であっても思考し文章を書いて公表すること自体には意味があると思いたい。
仮に地方荒廃が将来的に避けられなかったとしても、このブログ記事を読んでくれた一人でも多くの人に何かしらの気付きが与えられるのなら、マクロな共同体としては無理でも、ミクロな個人としてなら、ひょっとしたら救うことができるかもしれないからである。
特に宮古の子どもたちに届いてくれれば、それ以上望むことは何もない。

では、実際に具体的な対策をどう取っていくべきだろうか。
次回その内容を示していく。

(続く)