砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

21世紀型能力のうちのひとつ「自己表現力(情報発信力)」について(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑪)

21世紀を表す仕方として、前々回は成熟社会を、そして前回グローバル化社会を横糸に使いながら、「批判的思考力」と「対話力(コミュニケーション力)」の重要性について記述してきた。
成長社会から成熟社会への移行やローカルの時代からグローバルの時代への移行が21世紀に入ってますます顕著になってきたことを考えると、論の展開としてそれは有効な記述法だったと思っている。
今回もまた、別の軸を横糸に使うことで21世紀型能力のうちのひとつについて書いていくことになるわけだが、これでようやく、21世紀型能力について書き留めておくべきだと考えていた文章はすべて書き終えることができる。
確かに、「判断力」と「事態対応力」についてはまだ一言も触れていない。
前者は「批判的思考力」と一緒に書くべきだったと後で気づき、後者はわざわざひとつの記事にするほどのものは書けそうにないと思い至ったために、あえて書かないことにしたのだが、しかしどちらも21世紀型能力のうちのひとつであることに変わりはない。
現代社会の過度な流動性のなかで生き抜いていくには、短い期間でも容易に変動しうる事態に次々と対応していく力が求められるのは疑いのない事実だし、「単一の答え」が消え失せた成熟社会においては、ある物事について批判的に思考したあと、自分にとっての答えは一体どれなのか判断する力がやはり必要だからである。
そのことを念頭に置きつつ、今回は「表現力(発信力)」について書いていくことにしたい。
いつものように、論を進めていく過程で「表現力(発信力)」の意味を限定的に制約することを試みるつもりでいる。

では、さっそく始めていこう。
成熟社会とグローバル化社会以外で、21世紀を特徴づける概念をもうひとつ挙げるとすれば、それは情報化社会となる。
分かりきったことではあるが一応改めて確認しておくと、情報化社会とは、物や資本に価値が置かれていた工業化社会のあとに続く社会のことであり、そのような社会では知識や情報に価値が置かれ、膨大な量の情報の生産や処理あるいは伝達を中心として社会・経済が発達していく。
1990年代以降のインターネットや携帯電話の爆発的な普及そして情報技術の高度化をきっかけとして誕生した社会が情報化社会なのである。
インターネットや携帯電話は、歴史を遡れば何十年も前に遡ることができるが、普通の人々が手頃に入手でき、そして手軽に扱うことができるようになったのが1990年代以降である点を踏まえると、IT革命が起きた時期をこの辺りに設定しておくのは特に問題ないと思われる。
検索エンジンポータルサイトの「Yahoo!」が登場したのが1994年、世界的なヒット商品となりインターネット元年と呼ばれる契機となった「Windows 95」が発売されたのが1995年、検索エンジンからスタートし現代のネット社会の礎を築いたgoogleが誕生したのが1998年、そして日本では、キャリアメールの送受信やインターネットへの接続を可能とした「iモード」が搭載されたdocomoの携帯電話が発売されたのが1999年で、いずれも21世紀に入る直前で世に出てきており、一般家庭での実用化に大きく貢献していったことで、特に21世紀以降、パソコンや携帯電話そしてインターネットは、生活に欠かすことのできない必需品として世界的に広く使われるようになっていったのだった。
パソコンあるいは携帯電話の画面を通し、インターネット上でさまざまな情報が行き交い、そしてその情報が価値を持ち始めたことで、少しずつ情報化社会というにふさわしい時代へと移りつつあったわけだが、しかし普通の人々は、情報発信するための高度な技術を持ち合わせておらず、ITに詳しい一部の専門家的な人がネットに流す情報をただ見るだけの立場に甘んずるほかなかった。
パソコン・携帯電話・インターネットがこれだけ普及したとはいえ、いまだに情報を発信することのできる人とそうでない人(情報の送り手と受け手)が、ITスキルの有無ではっきりと分けられ固定化されていたのが、当時の状況だったと言える。
しかし2006年から始まる「Web2.0」と呼ばれる時代の到来により、状況は大きく一変することになる。
1990年代に原型が作られた情報化社会は、この「Web2.0」の登場によって、より一層急速に進展し、そして高度化していくことになったのだ。
今回述べる「表現力(発信力)」もそれとは無関連ではない。
この能力が21世紀を生きていくにあたりきわめて重要なものになったのには、「Web2.0」の存在が大きく関わっている。
簡単に説明しておくと、1990年後半〜2000年代前半までの情報化社会では、情報の生産者・発信者はマスメディアを含めてごく一部の人にのみ限られており、単一方向にしか情報のベクトルが向いていなかった。
普通の人々すなわち一般ユーザーは単に情報の消費者・受信者でしかなく、発信したい情報が仮にあったとしても自由に発信できるような環境にはなかった。
この時期を、前近代から近代成熟期への橋渡しの時期にあたる「近代過渡期」になぞらえて、「情報化社会過渡期」と言うこともできる。
産業革命後の製造業中心の工業化社会から、約10年間にわたる「情報化社会過渡期」を経て、サービス産業中心の情報化社会が真の意味で到来したのが、「Web2.0」が登場した2000年代後半のことである。
そしてそれに拍車をかけたのがスマートフォンの登場だった。
2007年(日本では2008年)にスマホ普及の火付け役となる「iPhone」が発売されてから、若者を中心に瞬く間に全世界的な広がりを見せることになったスマホの登場は、まさに革命的な出来事とも言え、従来のフィーチャーフォン(俗に言うガラケー)にはない機能をたくさん備えており、その違いがあまりに多すぎてここですべてを列挙することはできないものの、大きく違う点をひとつだけ挙げるとすると、通信速度が格段に上がりインターネットへの接続がパソコン並みの水準にまで到達したことだろう。
パソコンと同じレベルの通信機能を携帯電話サイズで扱うことが可能になったことにより、今までとは比較にならないほどの量の情報が生産され伝達されるようになっていった。
まさに「Web2.0」はスマホなしには成立しなかったとさえ言えるほど、情報化社会はその多くをスマホに負っているのである。
スマホの爆発的な普及により、それ以降の情報化社会では、ごく一部の人だけでなく、一般ユーザーも情報の生産者・発信者になることができ、これでようやく双方向的な情報の伝達が可能となる。
いや、双方向的というよりも、複線的と言ったほうがいいかもしれない。
Web2.0」の象徴であるSNSでは一対一だけで情報をやり取りするのではなく、複数人と同時にやり取りをすることができるようになったため、大量の情報が同時並行的に不特定多数の人々のあいだで、それこそまさに縦横無尽に行き交うようになった。
一般ユーザーが情報発信の主役に躍り出たことで、情報化社会過渡期までの、ITスキルが高い一部の専門家的な人やマスメディアなどの一部の特権層と一般ユーザーとの間に存在した非対称性が崩れ、対等な関係と呼ぶには行き過ぎているものの、しかし従来までのような極端な不均衡性が解消されたと言っていいところまで情報化社会が進展したと見ることができる。

2000年代後半から現在にかけて僕ら一般ユーザーは実にさまざまなインターネットツールを獲得した。
mixi、ブログ、Youtubeニコニコ動画、LINE、twitterFacebookInstagramと、ざっと思いつくだけでもこれだけ多くの情報発信ツールを現に持っている。
これらSNSや動画投稿サイトを積極的に使うことによって、今までは注目されることのなかったような人たち(テレビに出演する機会のない人たち)の発言が徐々に影響力を持ち始め、テレビの外から有名になっていくというこれまでにない潮流が生み出されてきた点は注目に値する。
才能を発揮し評価してもらえる場が一般ユーザーにも与えられたことは言うまでもなくもちろん望ましい。
しかし逆に言えば、従来なら発言機会の与えられることのなかった普通の人々が情報発信ツールを手にしたことで、不特定多数の人々に向けて何かしらの情報や自分なりの意見を発信することの重要性が今まで以上に高まってきていることもまたひとつの事実である。
情報化社会においては、ただ受動的に情報を受け取るだけの人間と自ら積極的に情報を発信していく人間との間の格差はますます広がっていき、この情報格差がそのまま経済格差に直結していくのは間違いない。
すでに情報は、経済的に見ても価値を生み出せるものにまで成り上がったと言っていいのである。
また、情報を発信するという行為は自分の意見を表明することにほかならず、ネット上で間接的に繋がる不特定多数の人々に対して、意見を通して「自分はこういう人間だ」と伝えることができる人のところには、方々からさまざまな情報が舞い込んでき、その結果としてさらに情報強者になっていくという循環が生まれる。
むろん情報をただ受動的に受け取っているだけの人は情報弱者になっていくしか道は残されていない。
情報格差が経済格差に直結していくという事実を考慮すると、今後情報弱者であることを笑って済ますことなどもう誰であってもできそうにない。

以上ここまで情報化社会を下敷きにしながら「表現力(発信力)」の重要性について述べてきたが、ようやく意味を制約できるところまできたように思う。
ここから先は、表現力は「自己表現力」に、発信力は「情報発信力」と定義づけ直すことにしたい。
情報化社会のなかで自己の意見を表明し、積極的に情報を発信していくことの重要性は、もはや無視できない段階にまで達しているのだと見なさざるをえないが、すでに「データ経済」という言葉があるように、情報は経済を動かす大きな原動力であり、「情報は現代の石油だ」との格言が出てくるほど、情報に対する姿勢如何によって現代社会における個々人の経済的な立ち位置が決まってくるといってもそう過言ではない。
それほどまでに情報との適切な向き合い方を理解しておくことは重要になってきており、だからこそ急務の課題として学校教育のなかで、「メディア・リテラシー教育」を中心とした情報教育の本格化に着手していかなければならないのだが、現実にはまったくと言っていいほど行なわれていない教育現場のほうが多数を占めると言わざるをえない。
技術・家庭科、保健体育、美術、音楽の授業には一定の時間が充てられているのに、なぜか情報の授業は今のところほとんどなく、かろうじて技術の授業の一部としてのみ扱われる程度にとどまっている。
ほかの4技能科目の授業にけっこうな時間数が割かれているのは過去(20世紀)の遺物にすぎない。
日常的に絵を描いたり、歌を歌ったり、木材を加工して工作物を作ったり、ミシンで衣類を作ったりする人は、しない人に比べると劇的に少ないが、日常的に情報に触れない人というのはあまりいない。
誰もが毎日のように何らかの形で情報に触れ、特に中高生にいたってはスマホを使いインターネットやSNSを通じて日々浴びるように情報の波に浸かっている。
中高生が触れる情報は確かに取り立てて言及するほど価値あるものではないものが多いのかもしれないが、そうは言っても情報である点に変わりはなく、昨年のアメリカ大統領選で「フェイクニュース」が話題になったことを考えてみても、自分が日々触れる情報が本当に正しいかどうかを見極める力を養うための「メディア・リテラシー教育」の必要性は、中高生だからこそますます高まってきていると言っていい。
すべての人にとってそれほど身近な情報については学ぶ機会がほとんどなく、あまり身近ではない4技能科目についてはそれなりの時間数が充てられているのには、不思議と言うほかに表現のしようがない。
美術や技術の授業が必要ではないと言いたいのではなく、それらの授業は希望者参加型のクラブ活動等で補うなりして授業に占める比重を下げていき、それとは逆に、情報の授業の比重を飛躍的に高めていく必要があると言いたいのである。
絵を描いたり歌を歌うのが下手でも将来経済的な不利益を被ることはないが、情報の扱い方次第で経済的な不利益を被ることは往々にしてありうる。
学校現場だけが現実と乖離していいわけがなく、むしろ率先して現実とニーズに応えられるような学習環境を整えることが、いま強く求められている。
豊かな人生を営むうえで豊富な生活教養を身につけることはもちろん欠かせないとは思うが、しかし大半の人にとっては、社会に出てからも「食っていく」ことができるかどうかのほうがきわめて重要な問題であり、現代が情報化社会である以上、ほかの4技能科目と比較した場合、「メディア・リテラシー教育」を中心とした情報教育が、学校現場でほかの何よりも真っ先に取り扱われるべきだということは疑う余地がない。

「自己表現力(情報発信力)」が21世紀型能力に含まれているとの認識から、情報教育を活発に行なっていくことが重要であると気づき、実際に本格的な情報教育を行なっている学校が全国にどのくらい存在するのかよく分からないが、僕自身そこまで多いとはとても思えず、前回挙げた学校同様、都市部の進学校あるいは中高一貫校の一部でのみ実践されているのが実状といったところだろう。
情報化社会という現実を前にしてどういう姿勢で向き合っていくべきか。
いま学校現場で行なわれるべきは、現実に見合った能力を身につけるための実用的な授業である。

(続く)