砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

21世紀型能力のうちのひとつ「対話力(コミュニケーション力)」について(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑩)

前回書いた文章は数時間で書き上げてみたものの、一見教育とは関係のないような話を切り口にしたため、そのあとで教育に話を持っていくための論理展開をどうしていけばいいのか、少し難しく感じた。
5500字を超える文章になったのも、論理の組み立て方に四苦八苦したことが原因になっている。
3月の終わりごろから1ヶ月以上かけて書き続けてきた一連の「宿題ばかりしているいまの子どもたち」も今回で10記事目を迎え、合計の文字数が現在のところ20000字を優に超えており、最終的には25000~30000字に到達しそうな勢いであることを考えてみると、書き始めた当初はまさかここまでのものを書くつもりじゃなかっただけに、一番驚いているのはほかならぬ僕自身であることは間違いない。
完全に後付けた理由にはなるが、一連の文章群をある種の”卒論”として位置付けたいと個人的には考えている。
平均文字数が20000~40000字程度の卒論に相当しそうなだけの文字数を曲がりなりにもここまで何とか書くことができ、それに加えて卒論が大学4年間の総括である点を考慮に入れると、今回の一連の文章は、僕が大学卒業後宮古に戻ってきてからの約4年間(正確には3年半)に経験したこと、見聞きしたこと、そして思考してきたことの総決算として書かれたものとして位置付けていいのではないか。
もちろんどうぞご勝手にと言われればそれまでだが、いずれにせよ、参考文献などをまったく用いずに、30000字近くの文章を書けるなんて当初は想像できなかっただけに、自分でもいまとても驚いている。
長くなったので前置きはここまでにしておこう。

一義的ではない「コミュニケーション力」の意味

前回は21世紀型能力のうちのひとつ「批判的思考力」について書いたが、今回は「対話力(コミュニケーション力)」について書く予定だった。
いきなりちゃぶ台をひっくり返すようなことを先に言っておくが、僕は「コミュニケーション力」という言葉が実はあまり好きじゃない。
というのも、この言葉には何だか薄っぺらな表現を耳にしたような響きがあるし、それだけじゃなく、この言葉を聞くと、中身が全然備わっていないのにただ単に口先だけが達者な人間を無意識のうちに想像してしまうからである。
おそらくそのような想像をするのは僕だけではなく、ほかにもたくさんいるのではないかとは思う。
しかし、「コミュニケーション力」と一口に言っても必ずしも一義的に定義づけられるわけじゃないことは今一度確認しておきたい。
同じ言葉として使ってはいても、場合によっては各自まったく異なる定義のもとで用いている可能性があるほど、「コミュニケーション力」は幅広いというべきか漠然としているというべきか、どちらにしても、きわめて多様な使い方ができる言葉である。
したがってまず第一に、「コミュニケーション力」を限定的な意味に制約するところから取りかかっていかなければ、いずれどこかで行き詰まってしまうことが目に見えている。
やや説明が過ぎるきらいがあるが、それでもなお、可能な限り誤解を生まないようにしておきたいと考えてのことだと分かってもらえるととてもありがたい。

「異質な他者」と対話を積み重ねる力が「コミュニケーション力」

21世紀型能力のうちのひとつに位置付けたことを勘案すると、「コミュニケーション力」とは、以下のように定義づけることができる。
すなわち、生まれも育ちも価値観も、さらには文化的社会的な背景までまったく異なる他者(異質な他者)であったとしても、彼らを理解したうえで、対話を積み重ねていくことができる能力のことである、と。
僕が21世紀型能力をいくつか列挙した際に、「対話力(コミュニケーション力)」とカッコ付きで記した理由はここにあるが、何から何まで自分と異なる相手と接する場合だけじゃなく、ある程度共通するものを持っている相手(たとえば日本人)とのやり取りの場合であっても、当然のように「コミュニケーション力」が必要になってくる。
ただし、ここで注意すべきは、相手と何らかの共通点を有している場合にこそ、より一層「コミュニケーション力」が求められるという点である。
なぜなら、自分と何らかの共通点を有している相手を「異質な他者」として捉えることは、口でいうほど簡単なことではないからだ。
外国人と接するときとは違い、確かに日本人同士なら、わざわざ口に出さずとも相手と意思疎通ができる場合が多い。
しかしだからといって、海外に行かずに日本にとどまれば、それほど「コミュニケーション力」を求められることがないかといえば、決してそんなことはない。
前回、戦後日本経済史を産業構造の変化から見ていった際に、国民的な「単一の答え」が消え失せてしまった時代が21世紀型の成熟社会であると分析した話を覚えているだろうか。
もし忘れてしまったのならここでもう一度思い出してもらいたいが、この分析は、前回の「批判的思考力」にだけでなく「コミュニケーション力」を考える際にも非常に有効に応用することができる。
「ほかの誰かが欲しいものは自分も欲しい」という共通見解が成り立たなくなった21世紀型の成熟社会では、日本人の間においてすら、何が答えなのか、「単一の答え」を導き出すことができなくなったわけだが、だとすれば、共通見解が存在していた20世紀型の成長社会とは違い、いまの時代は、生まれた国や性別あるいは世代を共通項として仮に持っていたとしても、その相手を「同質的な他者=自分と似た相手」と捉えることがますます難しくなってきているのだと考えざるを得ない。
つまり、言葉にあまり頼らずにただ察し合うだけで、お互いが何を考えているのか把握することができるという考え方がきわめて困難になっているのだと捉えたほうがいいのではないかということである。
海外に行かずに日本にとどまり続けたとしても、「コミュニケーション力」は、単に必要であるどころか、ましてやより一層必要とされるような時代になった理由がこれで分かるはずだ。
ましてやグローバル化した時代である。
1990年代の世界的な経済危機のあと、グローバリズムの影響により、他国との交流が劇的に増えた結果、(一般的な意味での)「異質な他者」と関わる機会を意図的に避けることができなくなってしまい、これまでのように日本国内で普段と変わらない生活を営むだけであったとしても、今まで以上に「コミュニケーション力」が必要とされる場面がますます増えてきた。
勘のいい人ならお気づきのように、成熟社会=グローバル化社会であるがゆえに、21世紀は、「単一の答え」を共有していない「異質な他者」の存在が、日本国内外問わず、いたるところで顕在化してきた時代であるとの認識がきわめて重要なものとなってきたのだ。

以上の分析によって明らかになった点を、ここでいったん整理しておく。

1、「単一の答え」が消え失せた成熟社会においては、同じ日本人ですら「同質的な他者=自分と似た相手」と見なすことが難しくなった。
2、成熟社会=グローバル化社会の等式が成り立つ。
3、グローバル化社会の影響で「他国の人々=異質な他者」と関わる機会が劇的に増えた。
4、したがって、たとえ誰が相手であろうとも、基本的には「異質な他者」として扱うことが重要になってきた。
5、「異質な他者」を理解したうえで、彼らと対話を積み重ねていく能力を「対話力(コミュニケーション力)」と定義する。

ようやく「対話力(コミュニケーション力)」を限定的な意味に制約するところまで来ることができた。
そして、ここから教育の話につなげていこう。

「察し合う文化」の日本と「説明し合う文化」の欧米

「察し合う文化」の日本と「説明し合う文化」の欧米「対話力(コミュニケーション力)」が、21世紀を生きていくにあたって必要不可欠な能力のうちのひとつなのだとしたら、早い段階で身につけておくのが望ましいことは言うまでもないのだが、果たして従来の学校教育で身につけられるものなのかどうか聞かれると、前回の「批判的思考力」同様、やはり、きわめて難しいと答えざるをえない。
従来の学校教育で日常的に見られるような、教師が教壇の前に立って、生徒や学生に対し、一方的に講義を授けるような形式の授業内容だと、他のクラスメイトや出席者と対話をする機会を与えられることがないのだから、「対話力(コミュニケーション力)」を身につけることがきわめて難しいのも、当然といえば当然である。
ひるがえって、近年日本でもよく耳にするようなアクティブラーニングの源流にあたる欧米式の授業では、学校教育の早い段階から、体験学習やグループディスカッションあるいはディベートを中心としたスタイルを取ることが多いために、自然と「対話力(コミュニケーション力)」を鍛える環境が整っているといっていい。
国民性の違いもあるだろうが、単一民族で構成されているわけではない欧米諸国では、日本のように、相手が何を考えているのか察することがそもそも難しく、お互いに自分の考えていることを説明し合わなければ、意思を疎通することができないといったような事情も、ディベート教育等が盛んな理由のうちのひとつだろう。
21世紀に差しかかる時期に成熟社会とグローバル化社会を同時に迎え、「単一の答え」が消え失せた現在の日本は、「察し合う文化」から「説明し合う文化」への移行がもはや避けられない状況にある。
お互いが何を考えているのか対話を通して伝えていかなければ、意思の疎通を図ることができないほどにまで、「異質な他者」の存在を前提にした対話の必要性が強く求められている所以はここにある。
だとすれば、なるべく早い段階から、自分の意見を相手に納得してもらえるように伝える手法の習得を目指した学習プログラムを、学校教育のなかに取り入れていくのが当然なのは言うまでもないことではないだろうか。

「対話力(コミュニケーション力)」の養成を念頭に置いた都市部の学校の授業

すでに東京などの都市部では、時代状況の変化に合わせた授業スタイルを取り入れる学校が出てきている。
作家の恩田陸が表紙を飾る3月27日付けのAERAには、21世紀型能力の習得に向けた先進的な取り組みをおこなう中学校や高校がいくつか紹介されていた。
同書によれば、都内にある青山学院高等部の高2の英語の授業では、たとえば、"Discussion in Heaven"と題して、ケネディ大統領やマザー・テレサあるいは坂本龍馬などの歴史上の偉人のなかで誰か一人を蘇らせるとしたら誰にするのか議論することがあるという。
高3時には、アメリカのノンフィクション作品を半年かけて読み込み、最終的に「赦しとは」「生きるとは」「年を重ねるとは」といったテーマで30分のプレゼンをおこなったりしているとのことで、また、青山学院大学に通う留学生と一緒に、移民やLBGTなど世間の関心度が高い社会問題について議論するなどの多彩なプログラムも用意されているらしく、従来の学校教育からは想像もつかないような試みが実際になされている。
ほかにも、東洋大学京北中学校では、哲学者の井上円了が創設した学校として、哲学を根底に据えた教育をしたいとの考えから、哲学が必修授業になっており、教師や生徒が問いを立てて、その問いに対し意見を交換する形式になっているそうだ。
これらの例を、都市部の中高一貫校あるいは大学付属校だからこそ実現できた取り組みじゃないかと言われれば確かにそれまでだが、とはいっても、21世紀型能力の開発に向けた学習プログラムを用意している学校が存在することに変わりはない。
青山学院高等部がグループディスカッションをおこない、東洋大学京北中学校が正解のないテーマを題材にした意見交換会を授業に盛り込んでいるのは、明らかに「対話力(コミュニケーション力)」を養成していこうとする動機から出発している。
成果が出ているかどうか一朝一夕で判断できるものでもなければ、改善の余地もまだまだたくさんあるとは思うが、これら多彩な取り組みが成功しているかどうかを吟味する前に、取り組みがおこなわれていること自体まずは評価に値するだろう。
なぜなら、ほかの大半の学校は、そのような取り組みをするかどうか考えたことすらないのが実状だからである。
いま、時代の移り目に真剣に向き合おうとする学校とそうでない学校、あるいは向き合うことが可能な学校と向き合いたくても向き合えない学校とで、大きくふたつに分断されようとしている。
21世紀における格差は、こうしたところから生み出されていくのだろう。
すなわち、20世紀に取り残される者と、21世紀に進む者とのあいだで。

(続く)