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砂川浩範の日記

自分の頭で考えたことを週1~2ペースで更新予定。

21世紀型能力のうちのひとつ「批判的思考力」について(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑨)

近年さまざまな識者が至るところで論じるようになった「21世紀型能力」だが、人によってはもしかしたら馴染みの薄い概念かもしれない。
ここ数年にわたり繰り返し論じられてきたにもかかわらず、「21世紀型能力」についての言説がいまだ一部の人々のあいだでしか浸透していないのは、「20世紀型能力」の獲得に重点を置いてきた従来の知識偏重型教育あるいは偏差値至上主義などと形容される日本の教育システムが、相当深いところで僕ら日本人のなかに根付いていることの表れだと見なすことができるからなのかもしれない。
そこで今回は、前々回から言及しているこの「21世紀型能力」について、もう少し詳細な説明を加えていきたいと思う。

前回僕は「21世紀型能力」を「社会性にフォーカスした能力」と一言で表現し、「思考力・判断力・表現力(発信力)・対話力(コミュニケーション力)・事態対応力」といくつかの項目に分類した。
これらの能力を具体的に論じる前に少しだけ理念的な話をすると、「21世紀型能力」とは「異質な他者の存在を前提とした能力」と言い換えることができる。
異質な他者の存在を前提にして物事を考え行動できる人のことを、普通僕らは「社会性に富んだ人」などと呼んだりするが、イメージを湧かせやすいように、社会構造の変質を下敷きにしながら、「21世紀型能力」について、以下で具体的な説明を順に展開していこう。
なお、文字数の関係上、「異質な他者の存在」云々についての話は次回以降に譲ることにした。

まずは"思考力"について。
限定的な形容詞をつけると、思考力とは"批判的思考力"のことを指す。
当たり前だが、僕らが生きる実社会には「単一の答え」が存在しない。
「単一の答え」が存在しないのなら、僕らは自分なりの正解をその都度都度で導き出していかなければならないが、その答えが自分にとっては正解でも、他の誰かにとっては不正解ということが実社会ではかなりの確率で起こり得る。
もちろん、「単一の答え」が存在しないのは今も昔も同じである。
しかし社会秩序が極めて流動化した現代は、以前と比べても比較にならないほど、他者とは違う自分なりの解をより一層求められている時代だと言える。
より包括的に論理立てていけるように、ここで社会構造の変質を補助線に用いてみよう。
T型フォード車に代表される20世紀型の産業製品は、少品種大量生産型の社会の到来を意味するものだった。
それは、周到に設計された労務管理法を用い、作業効率を高めながら製品を単純化、部品を標準化していった結果、大量生産と大量消費を実現可能なものにした社会である。
このような経営思想あるいは生産システムを、社会科学系の学問では「フォーディズム」と定義づけている。
まだ発展の途上にあった戦後日本(=成長社会)の一般的な家庭では、三種の神器や3Cなど、何が欲しいのかについての共通見解が国民のあいだにはっきりと存在しており、誰もが欲しいと感じる数少ない製品を大量に生産して日本全体に広く行き渡らせていくことが、敗戦を乗り越え、再び繁栄の道を歩もうと活気立つ高度経済成長期における日本の姿だった。
この辺りは戦後日本経済史の基本的な話なので、詳しくは専門家が書いた書籍に譲るが、ここで手短に語るとすれば、「他の誰かが欲しいものは自分も欲しい」という意識構造が戦後の日本では数十年もの長きにわたり続いてきたのだった。
先ほど、僕らが生きる実社会は今も昔も「単一の答え」が存在しないと述べたが、興味深いことに、1990年代に入るまでは、車やテレビあるいは持ち家など、欲望の所在がどこにあるのか、あたかも「単一の答え」が存在するかのように人々は考えていた。
この現象を学問的には「近代過渡期」と呼ぶことも、一応のところ常識の範囲内に収めていいだろう。

しかしながら、1990年代の世界的な経済危機を一つの境目にして、日本を含め先進諸国では「近代過渡期」から「近代成熟期」へと時代が移り変わっていく。
この時期、日本では不動産バブルが崩壊し、韓国やインドネシアそしてタイなどのアジア諸国では通貨危機が起こり、さらには2000年に入るとアメリカではITバブルがはじけたが、今にして思えば、この世界的な経済危機は、先進諸国が「成長社会」から「成熟社会」へと社会構造を変質させていく過程で発生したメルクマールだと捉えられるかもしれない。
1970年代に起きた石油危機をきっかけにして、安定成長からマイナス成長へと進んでいくにあたり、高度経済成長期を終えた日本社会は、1990年代初頭のバブル崩壊によって「成長社会」から「成熟社会」に移行していったと今しがた述べたところだが、その過程は、第二次産業中心の社会から第三次産業中心の社会へと産業構造が変化していった時代だと見ることもできるし、あるいは、「工業化社会」から「サービス産業社会」へと変化していった時代だと見ることもできる。
いずれにせよ、1990年代を境目にして社会構造が大きく変わりつつあったことは事実で、その変化に合わせるように、「フォーディズム」から「ポスト・フォーディズム」ともいうべき現象、すなわち少品種大量生産型の社会から多品種少量生産型の社会へと、労働の在り方や消費行動にも変化が見られるようになる。
高度経済成長期を経験したのちに一億総中流社会を実現した1980年代以降の日本では、文化的な最低限度の生活を営むうえで必要なもの(上記した三種の神器や3Cなど)は、どの家庭においてもおしなべて行き渡っていたために、「他の誰かが欲しいものは自分も欲しい」という共通見解がいつしか成り立たなくなってしまい、欲しいものが人それぞれ異なっていくようになる。
誰かが欲しいものはもうすでに自分も持っているーー。

だとすれば、必要最低限度のものを国民全体が手に入れた結果として、自分が欲するものは他の誰かが持っていないものへと変わっていき、これまで広く行き渡っていた国民的な共通見解すなわち「誰かが欲しいものは自分も欲しい」という意識構造が徐々に失われていくのも当然の成り行きだと言えるだろう。
もはや単に走るだけの車が欲しいのではなくて、ある人は「走行中にも視聴可能なテレビが搭載された車」が欲しいと考えるかもしれないし、また別のある人は「そんなテレビは要らないから、対向車が現れたときに自動でハイライトをOFFにする機能を備えた車」が欲しいと考えるかもしれない。
あるいは単に電話とメールができるだけのケータイが欲しいのではなくて、ある人は「Android OS仕様の、SIMロックが解除されているスマホ」が欲しいと考えるかもしれないし、また別のある人は「iPhoneの最新機種が発売される度に買い替えたい」と考えるかもしれない。
つまり、「単一の答え」が消えてなくなり、誰かにとっての正解は必ずしも自分にとっての正解ではなくなったという認識が、成熟社会を迎えた日本の新たな意識構造として広く共有されるようになっていった。
逆説的に聞こえるかもしれないが、共通見解が存在しないという認識が人々の共通見解になったのが、成熟社会を表す一つの特徴だったと言っていい。
この興味深い現象を、社会学者が「再帰的近代化(reflective modernity)」と呼び、哲学者が「ポストモダン(post modern)」と呼んできたのは周知の通り。

ここまで現代社会論の基本的なフレームワークを用いながら話を進めてきたが、ここからは"批判的思考力"に話を戻して、ひとまずの結論にまで持っていくことにしたい。
上述したように、「単一の答え」が消え失せた21世紀の成熟社会においては、他の誰かの答えが自分にとっての正解になるとは必ずしも言えず、自分以外の誰かの意見を鵜呑みにすることには大きな危険性が潜んでいるがゆえに、何事につけ、自分以外の誰かが持っているさまざまな意見・主張に対して批判的に考える力が要求される。
しかし、「20世紀型能力」を培うことを目的とした従来の学校教育では、この"批判的思考力"を養うことがきわめて難しい。
なぜなら、誰もが知っている通り、学校のテストや受験入試では「単一の答え」を導き出すことしか要求されていないからだ。
皆さんはテストや入試の場面で、作者の意見や主張について異議を唱えていい問題が出題されるところを見たことがあるだろうか。
残念ながら僕はない。
基本的な出題のされ方はこうである。

「問3 傍線部B「人びとに共通の枠組みを提供していた『大きな物語』」とあるが、この場合の「人びと」と「大きな物語」の関係はどのようなものか。その説明として最も適当なものを、次の①〜⑤のうちから一つ選べ。」

これは平成28年度のセンター現代文で出題された問題をそのまま転載したものだが、ここから分かるように、出題者が作者の意見や主張を「単一の答え」として設定し、問題文からその「絶対解」を探し出してもらう(すなわち忖度させる!)形式で出題されている。
最も適当な選択肢以外はすべて誤りで、したがって正解の導き出し方は、他の選択肢が間違いだと断定できる部分を探し出す以外にはない。
つまり先生が生徒の成績を付ける場合と同じように、減点方式に則って正解を探し出していくしかないのだ。
こういう問題を解かされることに慣れると、まるであらゆる物事が正解か不正解かの二者択一で割り切れるのではないかと錯覚する人が出てきたとしてもまったく不思議ではない。
その点、小論文はとても良いテストだと言える。
唯一小論文のみが、自分の意見を論理的に展開していいテストだからである。
しかし、それ以外の教科は基本的に作者の意見や主張を「単一の答え」として出題者が生徒に忖度させるのだから、これでは到底、自分以外の誰かの考えに対して批判的に考える力を身につけることなど土台無理な話だと言うほかない。
ひるがえって国際バカロレアの入試問題はこうである。

少数民族の迫害の主な原因は何か?具体例を挙げて答えよ。」

「1945年から1949年の冷戦の発生と進展においてソビエトの政策はどの程度まで責任があるか?」 

そのほか、たとえばイギリスのセンター試験にあたるA-level試験の政治学分野では、

「イギリスで政治参加と民主主義が強化されるための、種々の方法の有効性を論じよ。」

と出題された年があったらしい。
日本の受験入試の問題形式とだいぶ性質が異なることが分かるだろうか。
ここでは選択肢も正しい答えも用意されておらず、採点者に納得してもらえるようにひたすら自説を論理的説得的に展開していくことだけが求められている。
批判的思考力を身につけるためにはどちらの方式が試験問題としてふさわしいのか、ここまで来ればもはや明言する必要はない。

以上見てきたように、誰かの正解が必ずしも自分にとっての正解ではなくなった21世紀の成熟社会においては、"批判的思考力"こそがまず第一に獲得されるべき能力だと言っていい。
だからこそ、従来の学校教育の在り方を見直して、「単一の答え」しか存在しないような問題の出し方から、(場合によっては出題者が思いつかないような解まで含めて)複数の答えが考えられるような問題の出し方を可能にする方向へと転換していくことが、いま強く求められるようになってきたのだ。
リクルート出身で東京都初の民間人校長を務めた藤原和博は、成熟社会においては「正解」ではなく「納得解」を見つけ出すことが重要だと、もう何年も前から主張している。
「納得解」とは、正解か不正解かはっきり断定することのできない問いに対して、自分自身が納得できるようになるまで批判的に思考したのちにようやくたどり着ける解のことを指す。
正解が用意されていないのだから、正解が与えられた問いに答えるよりも、より多くの時間が必要になるのは当たり前で、ある程度の訓練を積まない限りは、どう答えを導き出していいのか、普通の人ならはじめは戸惑うだろう。
しかし、現実の社会では自分だけの正解をいちから作り上げていかなければならない場合が多く、時には権威や前例に反する答えを出すしかないような事態に遭遇することだって往々にしてあるはずである。
たとえ、自分より知識が豊富で経験が豊かな目上の者であっても、盲目的に信用せずに批判的な目を常に向けていくこと。
21世紀を迎えたいまの時代に「学校化社会」がその役目を終えたのは、先生の言うことに素直に従わなければ成績を下げられるという一方的な評価システムが、先生に対して批判的な目を向けること自体許されないような仕組みを作り上げ、そうして次第に先生をつけあがらせ、挙げ句の果てに批判的に物事を考える機会を子どもたちから奪ってしまうからである。
20世紀の「学校化社会」では、(悲惨なことに)先生が「単一の答え」だった。
しかしいまや実社会において「単一の答え」など存在しない。
誰かの答えになんて(ましてや先生の意見になんて!)寄りかからずに、自分にとっての正解は一体何なのか、他の誰かにとっての正解を考慮に入れながらも、粘り強く批判的に考えていくことこそ、僕らが生きる21世紀においてきわめて重要な能力だということが、これで分かってもらえただろうか。

あまりにも長くなってしまって正直前編と後編に分けたほうがいいのではないかと思ったが、しかし今回はあえて分けずに投稿することにした。
次回は、表現力(発信力)と対話力(コミュニケーション力)について述べる予定で考えている。

(続く)