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砂川浩範の日記

自分の頭で考えたことを週1~2ペースで更新予定。

21世紀型能力について(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑧)

ここ数年にわたって宮古の中高生のあいだで起きた「高学歴化」は、一見望ましいことであるかのように見えながら、実は20世紀的価値観のなかで生じた現象であったために、21世紀に入ってから20年近くが経とうとしているいまの時代には、ほとんど意味を失っていると書いたところで前回の話を終えた。
前々回まで、「学校化社会」という現象の陰の部分として「下層化する」ヤンキーたちを描写し、それとは対極的に「高学歴化」した中高生たちを光の部分として位置付けてきたのだが、ここまでの考察の結果、この分類の仕方にはどうしても無理があることが分かった。
それもそのはず。
両者とも20世紀的価値観のうえに成り立つ「学校化社会」によって生み出されたのだから、21世紀的価値観が重視される現代社会においては、両者を対極にあるものとして記述することはもはやできるはずがなく、そのように対比すること自体すでに無効となってしまったからだ。
別の話を例に出すなら、19世紀と20世紀には有効だった右翼と左翼の対立構造が21世紀には実質的に無効になり、その代わりに「世界を自由に動き回る者(=グローバル化した者)」と「一か所にとどまり続けることしかできない者(=ローカル化した者)」との間の対立構造に取って代わったのと似ていると言えなくもない。
すなわち左右の対立から上下の対立への変化だ。
このように、対立構造は時代によって常に変わっていくものなのだが、ここで気を付けるべきは、いま有効な対立構造が一体何なのか慎重に見極めることにある。
でないと、前時代でしか通用しなかった対立概念をいまだに使い続けて、社会現象を捉えるさいに的外れな捉え方をする危険性に陥ってしまうだろう。
説明が長くなったが、いまの時代に必要かつ有効な対立構造は、「高学歴化」した中高生と「下層化」したヤンキーとの間にあるのではなく、「学校化社会」の枠の中から脱して21世紀的価値観を自身の足元に据える中高生と、「学校化社会」の枠内に留まっていまだに20世紀的価値観に拘泥する中高生との間にある。
この図式は非常に重要なのでぜひ忘れないでほしい。

かなり以前から議論されてきたように、学校の成績が良かっただけの(いわば事務処理が得意な)人間ではなくて、急な状況変化にも臨機応変に対応できる能力のある(いわば状況処理が得意な)人間のほうが、いまの時代は、社会に出てから活躍できることが分かっている。
前者は「学校化社会」で良しとされてきた学校的価値観すなわち20世紀的価値観を基準とした場合に高評価を受ける人間だが、それとは対照的に、後者に属する人間は「学校化社会」のなかでは必ずしも高い評価を受けてきたわけじゃない。
どちらかと言えば、勉強が得意と言えるほど学力が高かったわけでもなく、学校の先生をはじめとする周囲の大人たちには一目置かれるような存在ではなかったケースが多い。
ただし、「下層化」したヤンキーたちとは違い、致命的なレベルで勉強ができなかったわけではない点には注意したい。
いわゆる「お勉強」ができなかっただけで、その他の分野で秀でた能力を発揮することができるところが、「高学歴化」した中高生とも、「下層化」したヤンキーとも違う。
むろん、宮古の「高学歴化」した中高生は前者に属し、20世紀的価値観に限れば高い評価を受けてきたのは言うまでもないが、しかし21世紀的価値観を評価軸に据えた場合に置き換えてみると、先ほど述べた話とは逆に、彼らが必ずしも高い評価を受けるとは限らない。
それどころか、(急な状況変化に対応しきれないがゆえに)社会に出てから「使えない」人物と見なされる場合だって往々にしてあるのが、「高学歴化」した果てに行き着く日本型受験エリートの姿だと言っていいかもしれない。

前回述べたように、取るに足らないようなものまで含めて知識がどれだけ頭の中に入っているか”記憶力”を問う形式のテストや、パターン化された典型的な問題を時間内に数多くこなしていく”事務処理能力”を問う形式のテストが、たとえどれだけできるようになったとしても、1990年代の世界的な経済危機のあと、グローバル化が急速に進展した結果として社会が過剰に流動化した現代においては、ほとんど役に立たない。
では21世紀において必要な能力とは一体何なのかといえば、それは、前回挙げた例をもう一度繰り返すことになるが、「思考力・判断力・表現力(発信力)・対話力(コミュニケーション力)、事態対応力」といったような、学校のテストや受験入試の点数でははかることのできない能力を指す。
これらの能力を、僕は前回、「21世紀型能力」と呼んだが、一言でいえば、「社会性にフォーカスした能力」と表現することもできる。
しかし残念なことに、いまの宮古で、この「21世紀型能力」の習得に着目し、実際に対策を講じている学校や塾は存在しない。
辟易するほど膨大に課された宿題や家庭学習の量、やってこない生徒に対する居残り学習の義務付け、放課後の買い食い禁止や漫画や雑誌などの学校への持ち込みの禁止、あるいは些細な事ですぐに開かれる全校集会など、校則をどんどん厳重にし、まるで子どもたちの自主性や創造性をわざと殺ぎ落としていくことを目的としているのかと疑いたくなってしまうようなこうした現状が、残念ながら、宮古の学校教育の姿である。
とてもじゃないが、21世紀を生きるいまの子どもたちにためになっているとはお世辞にも言えず、たとえ一部の中高生が「高学歴化」したとしても、その他大勢の中高生にとっては有害でしかない以上、「学校化社会」のどの面を切り取っても弁明できる余地はない。

(続く)