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砂川浩範の日記

自分の頭で考えたことを週1~2ペースで更新予定。

以前の非行少年といまのヤンキーの違い(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑥)

今回で、「宿題ばかりしているいまの子どもたち」と題した文章は6回目となる。
もうそろそろ終わってもいいころだと思うが、一度書き始めると、書きたいことが多すぎるのか、すぐに2000字近くになるため、一旦そこで区切ってUPすることにしたら、なかなか終わらせることができずに、結局同じテーマについてすでに5回も、延々と書き続ける羽目になってしまった。
2000字以上の文章をWEB上であまり書かないようにしているのは、それ以上は多くの人にとって読み飽きる長さになると考えているからで、何よりもまず僕自身が、一度に2000字以上もの長い文章を読みたいとは思わない(もちろんWEB上に限った話だが)。
だからなるべく、一つのエントリでだいたい2000字くらいと自分のなかで決めたうえで文章を書くことにしている。
と言っておきながら、ここまで書いてすでに330字を超えたため、さっそく前回の続きを書いていこうと思う。

前回書き切れなかった、僕ら世代の非行少年といまのヤンキーは似て非なるものだという点についてから、まずは始めていきたい。
分かりやすくまとめて言うと、以前の非行少年は学校内で肯定感を失わずに日常生活を送ることができていたのに対して、いまのヤンキーは肯定感を維持することがほとんど困難な状況に陥っているという点が、両者の相違を大きく際立たせていると僕は見ている。
これまで再三述べてきたように、その原因は、「学校化社会」が成立する以前に中高生だったのか、それとも成立後に中高生になったのかの違いに依っているわけだが、社会の在り方ひとつで、こんなにも個々人の実存が大きく左右されてしまう状況に遭遇すると、単に、世代間のギャップとして看過するわけにはいかないのではないか。
と、僕は考えているのだが、皆さんはどうだろう。

オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチの言葉を借用すれば、「価値の制度化」に基づく社会であるがゆえに、「学校化社会」は学力の二極化を招く。
少しだけ抽象度を上げて言えば、価値の制度化=価値の単一化=単一価値の絶対化が、その価値にそぐわない子どもたちを社会的に排除し、この排除作用が、ある特定の層に学校教育からのドロップアウトを実質的に強制する機能を果たしているのである。
単一価値の絶対化が生じる以前の社会では、当時の非行少年らは中間層に属していた。
下層(底辺層)に逃げ出したくなるほどに、ある特定の価値を押しつけられることがほとんどなく、したがって肯定感を維持した状態で学校生活を営むことができていたからだ。
しかし、いまのヤンキーたちはそうではない。
現在は、単一価値の絶対化が生じたあとの社会であるがゆえに、学校である特定の価値を押しつけられ、それに応えられない生徒は、「勉強ができない生徒」というレッテルを貼られ、そうして次第に肯定感が剥奪されていき、最終的には学校教育からの無言の強制退去を命じられる。
つまり、中間層から下層へと追いやられる。
ここに至るまでの過程には、もともと勉強ができなかった生徒が、より一層勉強できなくなっていくという悪循環が存在している。
逆説的に聞こえるかもしれないが、「学校化社会」の成立が、もともと勉強できなかった生徒の学力をより一層押し下げていくという悪循環が、ここにあるのである。
肯定感を与えてもらえない場所で、頑張る意欲を維持できるほど、子どもたちが非人間的であるはずがない。
そう考えると、単一価値の押しつけが、結果的に子どもたちの意欲を剥いできたことは言うまでもないだろう。

塾の現場に立つときに、まったくと言っていいほどやる気の感じられない生徒にたまに遭遇するのだが、そのあまりのやる気のなさに少々面喰ってしまうことがある。
そこで注意深く彼らを観察してみると、10代にしてすでに何かを諦めたかのような表情をしており、単に勉強に対してやる気が感じられないだけでなく、日常生活そのものに対するやる気がまったくと言っていいほど感じられない。
申し訳ないが、お世辞にも、彼らは日常生活が充実しているようにはとても見えず、その姿に自然と虚しさを覚えてしまうのは、決して僕だけじゃないはずだ。
しかも、そういう生徒に限って、中3になっても、正負の計算など、中学生なら解けて当たり前の問題がまったく解けなかったりすることが往々にしてあるからとても驚いてしまう。
小1から毎日1ページの家庭学習を義務付けられてきたにもかかわらずである。
以前の非行少年と違い、いまのヤンキーたちの悲惨さは、単に違法行為を重ねる点にあるのではなく、このように、中間層としては生きられないほど著しく学力が低い点にこそあるのだと言っていい。
その原因の一端が「学校化社会」にあるのだとしたら、「学校化社会」とは一体誰に恩恵をもたらしたのか。
その恩恵は、同じ現象の光と影の片方に属する「高学歴化」した中高生にもたらされたのだろうか。

(続く)