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砂川浩範の日記

自分の頭で考えたことを週1~2ペースで更新予定。

「学校化社会」が生み出したヤンキーたち(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑤)

前回は、僕の生まれ故郷である宮古でも「学校化社会」が急速に浸透してきたことの結果として、一見逆説的に見えるかもしれないが、学校教育をドロップアウトする人たちが増えているのではないかと書いたところで話を終えた。
このような社会が成立すると、学校の内でも外でも、いわゆる「学校的価値観」でしか評価されなくなるため、勉強ができない生徒は肯定感を与えてもらう機会を失ってしまい、その結果、学校を居場所だと捉えることができなくなり、そして次第に学校教育から遠ざかっていく羽目になる。
単一の価値基準しか持たない「学校化社会」(オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチの言葉では「価値の制度化」)は、それまでの社会と比べて多様性を失い、勉強ができる人とそうでない人との間にある学力差を、動かしがたい断絶として曝しあげ、上位層と下位層への二極化を、徐々にではあるが、しかし確実に推し進めていく。

宮古の中高生たちと塾の現場で接するようになってから教えてもらったことのうちのひとつに、中卒でそのまま高校に進学せずに土方をやったり居酒屋で働いたりと学校教育からドロップアウトする同級生が少なからず周りにいるという話があった。
ほかにも、高校には進学したものの、1年か2年そこらで中退したあと、仕事しているのかいないのかよく分からない若者たちが、数人で125ccのバイクを乗り回している姿を、街中で見かけることだってたまにある。
しかし、果たして彼らは本当に、「勉強ができずにグレた若者」として、批判されるべき対象なのだろうか。
どうも僕には、彼らが「学校化社会」の歪みから生み出されたように感じられて仕方がないのだ。
ここでひとまず、彼らのことを「ヤンキー化」した若者と定義し、もっと簡潔に「ヤンキー」と呼ぶことにしたいと思う。
というのも、勉強ができる生徒たち、もしくは勉強が特にできるとは言えないが、しかしグレる方向には走らなかった生徒たちが、勉強ができずにグレる方向に走った生徒を一般化して呼称するとき、いまの宮古では、ほぼ間違いなく「ヤンキー」と呼ぶからだ。
たとえば、

A「そういえばあいつ、この前酒飲んでて警察にバレたってよ」

B「うわりヤンキーだな!」(=「めっちゃヤンキーだね!)

などと、いまの中高生たちは会話するのだが、ここには、勉強ができずにグレる方向に走る彼らとそうでない僕らとでは、生きる世界がまるで違っているという意識が少なからず存在していると思われる。

僕が中高生だった当時、「ヤンキー」という言葉を使う人は、宮古には滅多にいなかった。
なぜなら、宮古高校理数科の生徒であろうが工業高校の生徒であろうが、生きる世界が違っているという認識のうえで高校生活を送っている人などほとんど皆無だったからだ。
当たり前だが、タバコを吸ったり酒を飲んだりと、法から逸脱する少年少女たちはいつの時代にだって存在する。
「学校化社会」(すなわち監視社会!)の浸透により、以前と比べれば減ってきたものの、酒やタバコなどの違法行為を行なう中高生が一定数いることは、いまも昔も変わらない。
ただ、僕ら世代の非行少年たちは、学校教育をドロップアウトしなかったし、そして何よりもヒエラルキーの最上層にいた。
前回書いたように、「学校化社会」成立以前の社会では、学校教育をドロップアウトするくらい疎外感を抱くほど、否定的な感情を学校に対して持つことはあまりなく、「学校的価値観」以外の価値観や能力が尊重されていたがゆえに、勉強ができるできない程度の問題は、そこまで重要なものではなかったからだ。
だからこそ、彼ら非行少年たちと勉強ができる生徒たちの間に埋めがたい断絶が存在しているなんてことはあり得なかった。
その証拠に、僕の世代では、宮古高校の生徒と工業や農高などの専門高校の生徒が男女の交際をしたり、あるいは成人したのち結婚したりするケースがけっこう普通にある。
しかし、いまの中高生に、このようなケースが現在でも当てはまるのかどうか尋ねてみると、おそらくは「ほとんどない」と答えるのではないだろうか。
そう想像したくなってしまうほど、いまの中高生のなかでは、勉強ができる生徒とそうでない生徒との間にある壁が、越えがたいほど高いものになっているのだと思わざるを得ない。
これを「学校化社会」の典型的な例と呼ばずして何と呼べばいいのだろう。

先ほど、「ヤンキー」という言葉には、「自分たちとは違う世界に生きる人たち」という認識が少なからず込められていると述べた。
「学校化社会」の到来と時を同じくして、この「ヤンキー」という言葉が中高生たちの間で使われるようになったのは決して偶然ではない。
「中間層の没落」とまでは言えないにしても(以前の非行少年少女たちは中間層に属していた)、勉強ができる生徒と学校教育をドロップアウトするほど勉強ができない生徒とでは、明らかに生きる世界が違っているのだと、当の本人たち、つまり、いまの中高生たちが無意識のうちにでも感じているからこそ、「ヤンキー」という言葉は、ここ宮古で当たり前のように使われるようになっていったのだ。
このように考えてみると、東大合格者も「ヤンキー化」した若者も、「学校化社会」から生み出されたという意味では、同じ穴のムジナなのかもしれない。
もし、この表現が不適切なのであれば、両者は「同じ現象の光と影の関係」にあるのだと言い換えてもいい。

(続く)