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砂川浩範の日記

自分の頭で考えたことを週1~2ペースで更新予定。

「学校化社会」について(宿題ばかりしているいまの子どもたち④)

前回は、「家庭学習の義務付け」に象徴されるような、学力向上のための教育的施策が島全体を通して積極的に行なわれてきた結果として、大学合格の実績が伸びてきた反面、その裏で学校教育をドロップアウトする人の数も増加してきているのではないかと書いたところで話を終えた。
①から③まで書いてきて、どんどんタイトルと内容がずれていっているような気がしないでもないが、このまま話を続けることにしたい。

というのも、「宿題」という小さな事象を取り出してきて初めて見えてくる大きな事象というものがあり、むしろそちらに目を向けるための気づきを与えることをひとつの目的とした上で、この文章を書いているからだ。
物事の本質は、得てしてその存在が隠されていることが多い。
それはなかなか人目につくことがなく、僕らには基本的に本質から派生する表層の部分しか見えてこない。
ただ、一回立ち止まって「それは一体どういうことだろう?」と思考を巡らせてみて初めて物事の本質に触れられるようになり、そして本質にたどり着いた後にようやく根本的な解を導き出せるはずだと僕は考えている。
だからこそ、ここまで長々と文章を書き連ね、当初の出発点だった「宿題」という小さな事象の枠組みをはみ出して、より大きな問いを提示できるよう努めてきたのだが、では、ここで言う”物事の本質”とは一体なんなのか。

それは、一口に言えば「学校化社会」についての問いのことを指す。
僕はこれまで「宿題」を切り口としながらも、明言せずとも常にその背後で「学校化社会」という、より普遍的な問いに通じるような説明の仕方をするように心がけてきた。
「学校化社会」とは、オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』のなかで提唱した概念だが、簡単に説明すると、学校で良しとされている”学校的価値観”が広く蔓延した社会のことを指し、たとえば成績の良し悪しや(先生に従順するような)品行方正な態度など、学校内でしか本来通用しないはずの価値観が、学校の外に大きく広がっている実社会においても、その人をはかる重要な価値基準として適用される社会だと定義できる。
こう言ってよければ、「単に勉強が得意なだけで役に立たないお利口さん」が威張ることができる社会を「学校化社会」だと端的に表現していい。
このような社会が成立する以前の社会では、成績が良いとか悪いとか学校内の価値基準は、いったん学校の外に出てしまえばあまり影響力を持たず、どちらかと言えば、勉強以外の能力、たとえば、機械いじりが得意だの音楽や映画に精通しているだの、テストの点数には左右されない能力のほうが、その人を判断する際により重要な位置を占めていた。
それだけでなく、学校内においてさえも、勉強ができるかどうかよりも、それ以外の要素のほうが、学内で存在感を発揮する際により大きな役割を果たしていたのだ。
社会学者・宮台真司先生の麻布中高時代の話とも似ているが、当時の宮古には、ギャグマンであるとか、顔が広いとか、ちょっと変わった特技があるとか、そういった勉強以外の能力で秀でている人が尊重される風土が存在しており、評価基準として、「勉強ができるかどうか」は二の次だった。
つまり、勉強ができない生徒にとっても、学校は、肯定感を育むことができる場所として機能していた。
しかし、「学校化社会」が成立するや否や、そういった能力が評価されるのではなく、「勉強ができるかできないか」、ただこの一点だけで子どもたちが評価されるようになってしまったのだ。
その結果、勉強ができない生徒は、学校の内でも外でも良い評価を受ける機会が激減し、社会のなかで次第に居場所を失っていく。

ここでようやく前回の内容と話がつながってくるが、この「学校化社会」が、宮古でも近年急速に浸透しているのだと考えると、「学校行くの疲れた」とこぼす小中高生たちが増加しているように見える理由、そして義務教育終了と同時に学校教育をドロップアウトしたり、あるいは高校に進学したものの途中で退学したりする生徒が増えているように見える理由が、少し分かってくるのではないだろうか。
肯定感を与えてもらえないような場所に好きこのんで行きたいと思う人など誰もいない。

(続く)