砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

宿題ばかりしているいまの子どもたち

3年前に地元宮古の塾で中学生を教えるようになって驚いたことがひとつある。
それは、学校で「自学自習」や「がんばりノート」といった名目をつけて、家庭学習が毎日1ページ義務付けられていることだった。
話を聞いてみたところ、これは土日にも課されていて、週明けの月曜には合計3ページもの家庭学習を提出しなければならないことになっているらしい。
家庭学習とは本来、宿題とは別の、自主的におこなう勉強のことを指し、やるかやらないかは本人が自由に決めていいはずのものだが、いつの間にか、ここ宮古では、家庭学習という名を借りた半強制的な宿題が、小学生から高校生にいたるまで幅広く課されるようになっていて、これにはけっこう驚いた。
僕らが小学生や中高生だったときには、「がんばりノート」はおろか宿題すらほとんど出されることがなかったのは、同世代の共通認識として広く行き渡っていると思うが、果たしてどのあたりの世代から、こんなにもたくさんの宿題が毎日課されるようになったのかとても気になるところではある(おそらく2005年10月に誕生した宮古島市政後だと思うが)。

つい最近、塾で教えている小学生に「今日は宿題あるの?」と本当に何気なく質問した際に返ってきた答えが「ないとおかしいでしょ」だったときの驚きといったら今でも忘れられない。
このセリフからも分かるように、いまの子どもたちはどうやら、宿題というのは毎日あってしかるべきものだと考えているようで、しかも文句のひとつも言うことなく黙々と宿題を解き続けているのだから、何だか初めて目にした不思議な光景を見ているかのようだった。
「そんなに勉強して楽しいかい?」と率直に聞きたくなったのは申し訳ないが、それでもやはり、勉強以外にすべき大切なことよりも優先して、まず第一に宿題にいそしむ彼らの姿は、本音を言うと、全力で応援したい気を起こさせるものではなかった。

僕がまだ小中学生だったときには、毎日のように出される宿題がなかったのは先に述べたとおりだが、そうは言ってもさすがに夏休みの宿題があったことは誤解のないように言い添えておく。
ただ、僕の記憶が正しければ、真面目に夏休みの宿題を終わらせて提出していた友人はほとんどなかったと言っていいくらい形骸的なものだったことも同様に言い添えておきたい。
だから言ってしまえば、僕ら世代は高校を卒業するまで宿題とはほとんど縁がなかったと言ってよく、定期テストの対策を除けば、家庭で机に向かった経験は、高校2年の終わりごろに大学受験の勉強を始めたときが初めてだった。
大学受験の経験をした僕は、それでもまだ机に向かったほうで、同学年の1割未満しかセンター試験を受験しなかった世代にあたる当時の友人らの大半は、下手すると家庭で机に向かった経験は高校を卒業するまでほとんどないに等しかったんじゃないか。
いずれにせよ、宿題が学校生活のなかで占める比重は本当に微々たる程度のものでしかなかったことは、ここで何度も強調しておいていい。

幸運なことに、宿題をして来なくても学校の先生に怒られることはなく、良くも悪くも、当時の先生は、僕ら生徒の生活に対してあまり干渉してこなかったがために、いまの子どもたちに比べれば何をするにも本当に自由にやらせてもらっていたし、「目をつぶって」もらったこともそれなりに多かったと思う。
言い換えれば、僕ら当時の子どもたちは宿題などで束縛されずに自由にさせてもらったぶん、勉強以外の大切なことを学校の外で学ぶ機会をたくさん与えられたのだった。
いま思い返せば、学校の先生たちも、子どもには勉強よりも大切なことがあると分かっていたからこそ、あまり干渉してこなかったんじゃないか。
以前、「……大人たちにかろうじて許されるのは、子どもたちの邪魔をしないということだけだ。」と書いたことがあるが、そういう先生方に恵まれた環境で学校生活を送ってこれたことは、本当にどれだけ感謝してもしきれない。

(続く)