砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

マスクの社会学②

でも「マスクをつける」ことは、近代化(=都市化)した地域ならどこででも見られる普遍的な現象ではなく、現代日本だけの特有な現象なのかもしれないと僕は考えている。
というのも、いくら近代化しているとはいえ、マスクをつける人たちが当たり前のように街中を歩いている光景は、ほかの先進国では普通あまり見られないからだ。
それを裏付けるかのように、先日コンビニでたまたま手にした週刊誌に「日本は世界が驚くマスク大国」と題した記事が掲載されていた。
その記事によれば、日本人のマスク偏愛はほかの諸外国には理解しがたいものらしく、たとえば「アメリカで日常的にマスクをつけるのはマイケル・ジャクソンだけ」(アメリカ人)、「電車でつけている人がいたら重病人かと思って誰も近づかない」(ドイツ人)、「整形後なのかなと思う」(韓国人)といった各国の驚きの声が紹介されている。
だから前回書いたように、僕が高校生だった当時、宮古でマスクをつけている人がいたら不審者だと怪しまれたはずだという実感は、あながち的外れではないということが分かってもらえるのではないか。
しかも日本人のマスク依存に対する疑問の声は、先の週刊誌だけが主張しているのではない。
ハイパー・メディアクリエイターの高城剛も自身のブログで同じように、空港の国際ターミナルで日本人の「マスクマン」が溢れていたことに驚きを隠さない。

国際空港ターミナルで、日本人だけマスクマン。
その光景は国際道徳に反するなどではなく、滑稽だ。
礼儀的にマスクはとった方がいい。
つけてる人が患者のようで、周囲に不安を捲いているのを気がつかないのだろうか?
どこかの国の隣のお婆さんが、怖がってますよ。
ガラパゴス化は、技術ではなく国民性になってしまったようだ。

少し過激な発言だが、彼の意見には、ほぼ全面的に僕も同意する。
百歩譲って風邪やインフルエンザのときにマスクをつけるのは仕方がない。
ただ、「だてマスク」という言葉に象徴されるように、体調が悪いわけでもないのに、スッピンを隠すためであったり、あるいは安心するからというだけの理由で、あえてマスクをつける人がここ数年で急激に増えているのは、誰もが耳にしたことがある通りで、これにはなかなか首肯できない部分がある。
いずれにせよ、マスクを日常的につける人に対して僕が薄気味悪さを感じる理由の一つは、その人の表情がまったく見えないことに起因している。
人と会話しているときに分かる、笑顔や悲しげな顔など、表情から読み取れる相手の細やかな感情というものがあると思うが、マスクをつけている人との会話の場合だとそれがよく分からなくなり少し困ってしまう。
「マスク大国日本」で生活しているぶん、すでに慣れているため、僕自身はそう感じたりはしないが、もしマスクに馴染みの薄い国の人と話しているときにこちら側がマスクで表情を隠したりすると、もしかしたらコミュニケーションを取りたくないのだろうかと相手に訝しまれる可能性だって、ないとは言い切れない。

近代化とは、これまで血縁・地縁関係を主体として構築されてきた集団的な関係性が解体されることで、自我がむき出しになり個人主義的で自由な自己が生み出される過程を指すが、「マスクをつける」ことは、集団内でのコミュニケーションを遮断し、一人ひとりの個人が自己のなかに内閉する行為だと見なせる以上、まさに日本が近代化した成れの果てに行き着いた一つの表象だと考えていい。
僕自身がなるべくマスクをつけないように心がけているのも、近代化の良い面と悪い面に自覚的になったうえで、その悪い面に対し自分なりに抗おうとしているのが、理由としてその背景にある。

この「マスクの社会学」は、ほとんどの人にとってはどうでもいいような細かい事象なのかもしれない。
特に、都会で育った人ならば、このような疑問を抱いたことすらないくらい歯牙にもかけない程度の問題なのかもしれない。
ただ、沖縄のそのまた離島である宮古で18年間過ごしてきた僕のような人間は、マスクひとつ取ってみてもかなり興味深いものに感じられるほど、近代的な街と前近代的なムラとの間に存在するあらゆる相違を敏感に感じ取ってしまうようで、縦長の国である日本には、お互いが知る由もないような独自の習俗のなかで暮らす人たちがちゃんと存在していることもまた、ひとつの事実なのだ。
だからこそ、こういう些細な事柄一つひとつに時間をかけて思考を巡らせてみることは、そう無駄ではないと僕は思っている。