砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

マスクの社会学①

高校を卒業して2006年3月に東京に出たとき、とても驚いたことがひとつある。
それは、毎日のようにお祭りをやっているんじゃないかと思ってしまうくらいの街中に溢れる人の多さでもなければ、見上げるだけで首が痛くなるような超高層ビルの高さでもない。
当時の僕が驚いたこと、それは他でもなくマスクをつけている人たちがそこらじゅうにたくさんいたことだった。
割と本気で「街中で毒ガスでも撒かれているんじゃないか」と怯えそうになるくらいだったから、どれだけ驚いたのか理解してもらえるのではないだろうか。
特に駅周辺でごった返す人々のうち、マスクをつけている人の割合は尋常じゃないほどかなり多かったと記憶している。
のちに知り合った東京の友人に確認したところ、風邪気味だったりインフルエンザや花粉症の対策だったりと、冬から春にかけてはマスクをつける理由がちゃんとあるらしいと教えてもらい、とりあえずのところ安心はしたのだが、それまでは彼ら「マスク人」たちが僕の目には奇異の対象として映り続けた。

「寒い時期にマスクをつけるなんて当たり前じゃないか」と思う人もいるだろう。
でも実は、そんなことはない。
内地ならいざ知らず、少なくとも僕の生まれ故郷である宮古で、マスクをつけている人は、いくらインフルエンザが流行る時期であっても、僕が高校生までは誰もいなかった。
と聞くと、いまの宮古の中高生たちはビックリするのではないだろうか。
でもこれは嘘じゃない。
自分の親に聞いてみたら分かる。
宮古では、学校はおろか病院でもつけている人がいなかったくらいだから、その当時マスクをつけている人がもしいたとすれば「不審者」だと絶対に怪しまれたはずだ。
それくらい宮古で生まれ育った僕にとってマスクとは、誤解を恐れずに言えば「異物」だと言っていいほど馴染みの薄いものだった。
それなのに、4年前久しぶりに帰ってきたとき、宮古でも「マスク人」たちの存在を当たり前のように確認できたときの驚きと悲しさと言ったら、今でも忘れられないほど鮮明に覚えている。
「あぁ、ついに宮古も内地化してしまったんだなぁ……。」とこれまた割と本気で宮古の現状を憂いたのだが、そのことについて(誰にも読ませていない)エッセイめいた文章を書くほどだった。

大学時代、僕は周囲の人に「自分の地元には冬でも風邪のときでもマスクをつけている人はいない」と鼻高々に言ってきたのに、まさか知らない間にそうではなくなっていたなんて、東京にいたときには思いもよらなかった。
なんでマスクをつけている人がいなかったくらいで鼻高々になったのかと言えば、少し難しい言い方をすれば、マスクとは近代化(=都市化)の一つの現象だととらえることができると考えていたことが背景にある。

都市化とは、つまるところ東京化を意味している。
もう少し簡単に言えば、「マスクをつけている=都会に染まっている=東京化している」という関係性が成り立つために、マスクをつけている人が街中にあまりいないということは、地元らしさ(=宮古らしさ)を残していると見なすことができるわけで、すなわち「都会に染まり切っていない部分を宮古はちゃんと持っている」のだと示したくて、大学時代の友人らに語るとき僕は鼻高々になったのだった。

マスクひとつでこんな難しく考えるなよって声があらゆる方向から飛んできそうだが、それくらい「都会に染まっているかいないか」は、東京での生活を7年経験してきた僕にとってはかなり大きな問題だった。
いや、僕だけじゃなくて、都会に住んだ経験のある田舎者なら、だれでも一度は通過する問いだと言っていいくらい、これは普遍的なものではないだろうか。
地元の仲間同士で集まっているにも関わらず、都会での生活が長いからといって標準語をしゃべる奴がいると思わずイラッとした経験は、田舎出身の人なら誰もが持っていると思うが、「マスクをつけるかつけないか」という二者択一の問いは、「地元民と集まったときでも標準語を喋るのか喋らないのか」といったようなより一般的な話に置き換えることだってできる。
これを「マスクの社会学」と名付けよう。

(続く)