砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

大学へ行く意義は「立ち止まる自由」を得るため(高校を卒業したのち向かう場所で②)

「大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。」

 卒業生にこう問いかけた渡辺校長は、大学へ行く意味を、以下のように端的に表現する。
「大学へ行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか」、と。
「言葉を換えるならば、「立ち止まる自由」を得るためなのではないか」、と。
まさにその通りだと、僕も大学在学中からずっと考えてきた。
少し表現の仕方は違うが、僕自身の言葉で言い直せば、「大学へ行く意義は、自分が「自由に耐えられる人間」であるかどうか見極めることにある」となる。
もう少し付け加えると、僕が敬愛する宮台先生の言葉では、「「陥没した視座」から世の中を眺める」となるし、思想家である内田樹の言葉では、「大学では「生産的無為」の時間を過ごすことが必要だ」となり、またタモリの言葉では「実存のゼロ地点に立て」になる(それぞれの言葉を一部改変)。

いまの時代、ITが高度に発達したために大学に行く意義はどんどん薄まってきており、さらに言えば僕は大学進学否定論者になりつつあるが、それでもなお、理系学部での実験を除いて、もし大学に行く意義があるとすれば、それはまさに、社会に出る前に一度ちゃんと足を止めて、「一体自分は何者なのか」「この世界で自分にできることとは一体何なのか」とじっくりと考えてみるという点に尽きるのではないだろうか。
多くの場合、中学高校時代あるいは社会に出たあとは、足を止めることはなかなか許してもらえない。
もちろん働き方次第では社会に出てからも、足を止めて自分と自分を取り巻く状況を見つめ直すことはそんなに難しいわけではないのだが、とりあえずのところ、多くの社会人にとってそれが難しいことに変わりはない。
もしそうだと考えるなら、渡辺校長が象徴的に述べた「海を見る自由」が得られる場所は大学をおいて他にはないということになる。
しかしその自由は、ときに「不安(と孤独)」を一緒に引き連れてやって来る。
いや、デンマークの哲学者キルケゴールが「不安は自由の眩暈だ」と述べているところからも分かるように、自由は不安と分かちがたく一緒に存在していると考えるほうが正しいだろう。
だからこそ大学へ行っても、「立ち止まる自由」を得ることもなく、不安に負け、これといった理由があるわけではないのにもかかわらず、とにかく予定を詰め込んで走り続ける人が後を絶たない。
その結果、断固守るべき己の「自由」を誰か別の人に明け渡し、委ねてしまうことになる。
まるで自ら不自由にでもなりたがっているかのように。
でも、一度足を止めないと見えてこないものがある。
足を止めてこそ見えるものがある。
それが一体何なのかは人それぞれだろうが、ここ日本では社会に出るとなかなか立ち止まることが許されない以上、せめて大学時代だけでも立ち止まってじっくりと考えてみることはとても貴重な時間の使い方だと僕は思っている。
渡辺校長が言うように、勉強なら大学を卒業してからも一生し続けていくものだし、友だちを作ることだって大学じゃないほうが手っ取り早いかもしれない。
少なくとも大学じゃなければできないことではない。
しかし唯一大学じゃないとできないこと、それは、長い人生の過程のなかで一度立ち止まる自由を4年間与えてもらうことで、「今後自分はどう生きていくべきか/どう生きていきたいのか」を考えるために、”自分の内なる声”に耳を傾けるということに他ならない。
まさにこの一点に、大学生活が懸かっていると言っていいくらいだ。

いまの宮高卒業生は、僕の11歳年下の学年になる。
4年前宮古に戻ってきたときの卒業生はそうでもなかったのに、さすがに今年の卒業生とはもう随分と年が離れてしまったように感じる。
彼らもまた、僕と同じように大学で4年間過ごすことになるわけだが、青春のすべてがつまった大学で実りある時間を過ごせるように、母校の先輩として、ささやかながらここで応援の意を伝えたいと思う。

 

参考までに、渡辺校長の祝辞全文。

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ) | 立教新座中学校・高等学校