砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

教育の本質は子どもの「可能性を引き出す」こと(超難関校に合格した芦田愛菜ちゃん②)

「勉強しなさい」なんてあほらしい忠告が、子どもにとってどれほど無意味でどれほど有害か、芦田愛菜ちゃんの成功例を見ると、それが痛いほどよく分かる。
本当に子どものためを思うなら勉強を無理強いするのではなくて、興味を持ったもの/持ってくれそうなものをあれこれ与えたり、教えたりするだけでいいのに、なぜか世間の親そして学校と塾の先生は、勉強を強制することが「子どものため」になると思うらしい。
よく知られているように、英語のeducateの語源はラテン語のeducatioで、もともとは「引き出す/同伴する」を意味する言葉である点からも分かるように、教育の本質は、子どもの「可能性を引き出す」ことにある。
「同伴する」とは、傍に寄り添いながらサポートすることにほかならず、間違っても強制するという意味ではない。
「学校の本来の目的は実は勉強を教えることにあるのではない」ということについてはまた改めて書きたいと思っているが、いずれにせよ、可塑性の高い子どもの可能性を剥いでしまう行為を教育だと考えるのだけは十分に気をつけたい。

親が子どもと普段どう接しているのか、そしてどういった姿を子どもに見せているのか。
ここまで愛菜ちゃんの実例を見てきて分かったように、読書家の父親に育てられた子どもは自然と読書家になっていき、それに合わせて豊富な語彙力を身につけ、超難関校であろうが受験を突破していくだろうし、日頃から熱心に自分から学ぶ姿勢を子どもに見せてあげれば、「勉強しなさい」なんて言わなくても、子どもは勝手に勉強に楽しさを見出していくものなのだ。
勉強は子どもの専売特許ではない。

このあいだの繰り返しになるが、子どもは親の合わせ鏡なのだから、自分が勉強したり本を読んだりしないのに、子どもが勝手に勉強したり本を読んだりするようになるわけがない。
だからこそ、「子どもが勉強しない」と不平をもらすのはお門違いであり、親はまず第一に自分の身を顧みることから始めてみるのが、実はとても大事なのだ。
「東大合格者は親に勉強しなさいと言われた経験がない」という話をよく聞くが、勉強ができる人ほど親に勉強しなさいと言われた経験がほとんどなく、勉強ができない人ほど親に勉強しなさいと言われてきたというのは皮肉としか言いようがない。
人がどういうときに学ぼうと意欲を持ち、そしてどういうときに最も成長できるのか。
このメカニズムをしっかりと理解した上で子どもと接していく教育こそ、本当の意味で「子どものため」になるのだと確言していい。

超難関校に合格した愛菜ちゃんの成功例は、本来の教育の在り方を示してくれたのだと考えてみれば、それは単に本人の合格以上に大きな意味をもたらしてくれたのかもしれない。