砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

「分からない」を多用するいまの子どもたち

教え子たちと普段話をしていて気づいたのだが、こちらが質問をした際の受け答えとして「分からない」を多用する子がかなり多い。
このあいだも、質問しても「分からない」「知らない」と言われ、もうそれ以上会話が進まなくなって少し困ってしまった。
小学生や中学生であれば多少は仕方がないと思いたいところだが、しかし小学生や中学生のうちから「分からない」を多用することに慣れきってしまうと、自然と自分の頭を使わないようになっていくだろうから、その点心配であることに変わりはない。
自分の子どもを頭良くしたいのなら、子どもに「問いかけ続ける」ことが大事だと言われるのも、親からの問いかけに対して、自分なりの答えを導き出そうと頭を働かせるプロセスを踏む機会を子どもに多く与えることにつながるからだ。
その際は、子どもと一緒に考えてみるのもいいだろう。
やや難しいテーマを一緒に考えてあげると、普段は気にしないようなことにまで興味を広げてくれるようになるかもしれない。
そうすればしめたもので、あとは子どもの興味のおもむくままにさせてあげるだけでいい。
その邪魔を親はしちゃいけない。
思うに、「分からない」「知らない」を多用する子どもの場合、問題はその子自身にあるというよりは、むしろ家庭を中心とした周囲の環境に原因があることのほうが多い。
世の中に満ちた不思議な現象や出来事について、親のほうがまず「疑問」を持っているかどうか。
もし持っていなければ、その不思議な現象について「疑問」に思うきっかけを子どもは持ちにくい。
つまり、「疑問」があたかも存在しないものとして、さも当たり前のことであるかのように扱われる。
それに慣れきった子どもは、まるで自分の親を模倣するかのように、この世のさまざまな「不思議な」事柄について疑問を持たなくなる。
「分からないこと」を分からないものとしてそのまま放置(放棄)させるのではなく、「一体それはどういうことなんだろう?」と、一度まず自分なりに考えてみるきっかけを与えること。

自分の子どもを塾に預けに来る保護者の方たちと時々話をしていてひとつ問題だと思う点は、塾に通えば成績が自ずと上がっていくものだと考えているところにある。
その際、家庭でどう過ごすかは考慮されていない場合が多い。
大事なのは、週2日か3日しか過ごさない塾ではなくて、より多くの時間を過ごす学校や家庭のほうであり、塾はあくまで学校や家庭の下支えをする補完物に過ぎない。
基本的に子どもは親の背中を見て育つものなのだから、塾に通っても成績が伸びなかったと不平をもらす前に、まずは家庭で子どもとどうかかわっているのかをじっくり考えてみるほうが、優先度としてはより高いのではないだろうか。
必ずしも学校が大事な場所だとは思わないし、僕自身は同質的な場である学校が好きではないが、しかしだからといって学校とは違い家庭からは逃れられない。
だからこそ、子どもの成長にとって大きな影響を与えるのは家庭であって塾ではないということを、親がまず認識することはとても重要だと僕は考えている。

子どもは親の合わせ鏡のようなところがあるから、子どもの「分からない」「知らない」という言葉の多用は、そのまま親の知的姿勢を示していると考えてもそう間違いではない。
「分からない」ものに対して、子どもが自分の頭でちゃんと思考をめぐらすことができるか、それは全面的に親にかかっていると言っていい。

子どもが「分からない」ものを分からないまま放置したり、勉強しないからといって、あなたは子どものせいにしていないだろうか。