砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

何者でもない自分を「何者」かだと勘違いさせてくれるtwitter

早いものでtwitterをやめてもう5年になる。
僕が使い始めたのはtwitterが日本に上陸してまもない2009年の夏ごろだったから、周囲を見渡しても割かし早いほうだったんじゃないかと思う。
当時はまだまだ誰にも知られていないようなサービスで、僕の周りで使っていたのは指で数えられる程度しかいなかったと記憶している。
使ってみた印象としてそれこそ画期的なネットサービスだと感じたのだが、twitterが世間的に普及するようになったのはそれから1年足らずのことだった。
画期的だと感じた理由は、直接には知らない人たちとフォローし合いコミュニケーションを取ることで生まれる関係性を当たり前のものにしたのがこのtwitterだったからだ。
twitterが流行る何年も前から日本には「2ちゃんねる」が存在していたから、それに馴れ親しんでいた人たちにとっては、ネット上の関係性はそんなに目新しいものではなかったはずだが、twitterが果たした大きな役割は、それまではマイナーだったネット上の関係性を日常的なものにし、リアルとフィクションの境界線をより一層曖昧なものにしていったところにあるだろう。
2ちゃんねる」起源の「リア充」や「リア友」などの用語は、2000年代後半から2010年代前半にかけて、twitterに代表されるSNSが発達することで広く人口に膾炙していくことになり、リアルとフィクションの境界を曖昧にする機能を持つインターネットが、曖昧にしながらも逆説的にリアルとフィクションの差異を際立たせていく現象はとても興味深いものだった。
フィクションの存在が前提にないと「リア(ルな世界が)充(実している)」という認識がまず生まれない。

御多分にもれず僕もtwitterにハマっていったユーザーのうちの1人だ。
リアルな友人と相互にフォローし合って近況を知るのはもちろんのこと、各界の著名人や特定分野に詳しい人たちをフォローして情報を得るのは本当に楽しかった。
一番よく使っていたのは大学3年生だった2010年ごろで、本の世界にのめり込むか込まないかくらいのタイミングだった当時、関心の高かった現代思想や哲学に詳しい人たちのツイートを見ては、一つの勉強として自分の肥やしにしていった。
社会的には認知されていないがしかし優れた人たちというのが世間にはこんなにもたくさんいるのだと知る機会は、twitterによって与えられたものだった。
ただ、当時絡んでいたtwitter上の人たちが現在どこで何をしているのかは分からない。
今でもまだつぶやき続けているのかもしれないし、僕と同じように飽きて止めてしまった人もたくさんいるだろう。
東日本大震災をきっかけとして利用者数はさらに増えていったと思うが、僕は反対に東日本大震災をきっかけにしてtwitterから遠ざかっていくことになる。
いや、震災を直接のきっかけにしたわけじゃない。
震災以降広く使われ過ぎてしまったせいか、掃き溜めのようにひっきりなしに流れてくるツイートのゴミの山を一つひとつ追いかけていくことにもう疲れてしまっていたし、現代思想や哲学の勉強ならtwitterよりも読書でするほうが明らかに効率的で、そして何よりも、ここが一番大事だが、twitterは何者でもない自分が、まるで「何者」かになったかのように勘違いさせてくれるツールなんだと気づいてしまったことで、僕のtwitterに対する熱は徐々に冷めていった。
そう、何者でもないのに、twitter上だと自分が何者かになったかのように錯覚することができる。
これは全世界から誰にでもアクセス可能なインターネットがもたらす興味深い現象の一つだが、知らず知らずのうちに僕も、自分が「何者かである」と勘違いをしていたようだった。
それが何だかとても格好悪くて恥ずかしくなり、読書修行を本格的に始めていくタイミングだったこともあって、大学4年生だった2011年の秋ごろに、断然利用頻度の少なかったFacebookと同時にtwitterをやめたのだった。
最近話題になっているように、このネットサービスの存続自体が危機に陥っているようだし、いまさらtwitterを再開する気にはあまりなれないが、幸いにも自分が何者かであると勘違いせずにこの5年間過ごしてこれたのは、自分の人生を歩む過程としてとても良かったんじゃないかと思っている。

twitterをやめた今でも僕はまだ「何者」でもない。