砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

大人の言うことなんか聞かなくていい

年度始めで何かと忙しいこの時期、高校生には実力テストというのがある。
いまお世話になっている塾のほうでも、高校生が夜遅くまでテスト勉強に励んでいたのだが、「いまはどんな問題がテストに出されるのだろう」と気になって、テスト対策用のプリントを見せてもらった。
すると驚いたことに、こんな重箱の隅をつつくような問題を仮に解けたとして、一体何の役に立つのだろうと考え込んでしまうようなものばかりだった。
ここにあるような問題がもし解けなかったとしても、頭の良し悪しにはほとんど関係がないようなものが大半だったのには、そういえば僕らも高校生のときには同じような問題を解かされていたんだと思い返すと、学校の進歩のなさには呆れるしかなかった。
それをテストと称して学校では強制的に解かされるのだから、高校生としてはたまったもんじゃない。

高3になる直前のタイミングで大学受験の勉強を始めるまで、中間テストや期末テストなどの学校の試験と、受験で必要とされる勉強とでは大きく異なるものだということを僕は知らなかった。
別に大学受験に備えて高校生活を送っていたわけではなかったから、受験勉強を早く始めなかったことに対して後悔があるわけではなかったのだが、受験勉強を始めてからというもの、普段の学校の勉強をするのがあほらしくなって高3のときにはほとんど放棄してしまった。
こんな役に立たないことを高2までの2年間ひたすら授業で教わってきたのかと思うと、本当にばかばかしかったからだ。
特に真面目に授業を受けていたほうではなかったから、その分の時間を返せなんて誰かに要求したりすることなどはもちろんない。
それでもテスト前には高得点が取れるように一応家で勉強はしたし、その結果としてそれぞれの科目でいい点数が取れたときには、あからさまな態度で示すことはなかったにせよ、人並みに喜んでいたとは思う。
だけどそれが、受験ではまったくと言っていいほど役に立たないものであることを知ったとき、テストの点がよかっただけで喜んでいた自分が、何だか学校の先生に騙されたような気になって、それがそのまま学校や先生への不信感を募らせるきっかけとなり、それ以降先生の話は話半分でしか聞けなくなったし、テストでいい点を取るための努力をすることも、もうなくなっていた。
僕が通っていた宮古高校では当時、受験勉強をして大学に行く人は学年の1割にも満たなかったから、テストでいい点を取ることの「くだらなさ」に気づいていた人は、おそらくほとんどいなかったと思う。
むろん先生はその「くだらなさ」について教えてはくれない。
その不信感から、役に立たないと感じた授業中には大胆に寝てやることもあり、そのおかげでみんなの前で説教を食らったりしたこともあったのだけど、内心「それだったら意味ある授業をやってくれよ」としか思えず、反省する気は全然起きなかった。
学校や先生に対する不信感は、小6のころを発端にしてずっと持ち続けていたのだが、中学を経て高校に行ってもなお、それが収まることはなかった。
むしろその不信感は年を重ねれば重ねるほどどんどん増幅していくばかりだった。
教え子たちに常日頃から「大人を信用しちゃいけない」と言っているのも、こうした自分の経験に依るところが大きい。
学校の先生に限らず大人は、「子どものためを思ってのこと」などと言っておきながら、その実、言っていることとやっていることが、子どものためになっていないことが本当に多い。
特に一般論を述べているときは、その傾向が強い。
一般論はあくまで一般論でしかなく、自身の経験に裏付けされた話をしなければ、子どもたちには耳を貸してなどもらえないということを大人たちはよく理解したほうがいい。

受験を終え大学生になり、社会の成り立ちがそれなりに理解できるようになってからは、学校のテストだけでなく、大学受験ですらも(特に文系科目が)本当に役に立たなく「くだらない」代物だと分かったときの、受験勉強を始めたころの自分の世界の狭さには情けなくなるばかりだったが、その話はまた改めてすることにしたい。
どちらにせよ、高3のときに、当時通っていた田舎の普通校よりははるかに広い世界だった大学受験を経験できたことで、学校の先生に代表されるような身近な大人が、狭い視野でしか物事を見ておらず、もっと広い世界のことなど何も知らないということを反面教師として教えてくれたことが、学校で学んだ教訓の一つだということは皮肉としか言いようがない。
いまテスト勉強に励む高校生たちが、当時の僕のように、大人が言っていることの「くだらなさ」に気づいてくれるかどうかは分からないが、少なくとも僕のなかでこの確信が揺らいだりすることは今後もないだろう。