砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

宮台先生に「感染」したときの衝撃②

それからというもの、僕は、宮台先生のように経験と知識を兼ね備えたカッコいい大人になりたいと常に考えるようになった。
まったく足下に及ばないことははっきりと自覚した上で、それでもなお、何とかして追いつきたいという気持ちは、いまでもずっと持ち続けている。
そのあと彼の本は何冊も読んできたし、そのうちの一冊(『14歳からの社会学』)は愛読書にもなっている。
本を読むだけでなくblogやtwitterは常にチェックし、彼がゲストとして呼ばれるイベントがあればそこにも足を運んだ。
当然というべきか、僕の思想的枠組みのほとんどは彼によってもたらされたものだと言っていい。
その思想や人格がどうやって築き上げられたのか知ろうと必死なったがゆえだった。
「感染」というのは、それだけ強烈なインパクトを与えるものだったと今更ながらに驚かされるが、大げさではなく、病気に感染したかのような状態になるのだから、それもまたさもありなんといったところだけども。

ひとつ確かなことがある。
それは宮台先生のように感染力のある人間は、以前別の誰かに感染した経験があるということだ。
学生時代の彼もまた2人の師匠に感染した経験を持つ。
1人は政治社会学者の小室直樹に、もう1人は哲学者の廣松渉に。
両者ともまさに博覧強記と言うに相応しいほど凄まじい本を書く。
彼らに感染した体験がいまの宮台先生を形成しているのは、これまで繰り返し著書で言及されてきた通り。
このようにして感染は、人から人へと受け継がれて、ささやかではあるが社会の片隅にいまも連綿と残されている。
僕もまた、宮台先生に及ぶことはないにしても、誰か別の、次の世代に感染を与えられるような人間でありたいと常々考えているが、それは感染した者だけが持つ使命と言ったら言い過ぎだろうか。
いずれにせよ、感染が持つ力は、それを体験した者にしか分からないということだけは言い足しておきたい。

繰り返し言ってきたように、本の世界に沈み込んだことは確かに方向性としては正しくなかった。
ただ、もしひとつだけ、その過ちから何か救い出せるものがあるとすれば、それは宮台先生に感染した体験は、紛れもなく、本を通じてだったという否定しえない事実だ。
この事実だけは決して後悔していないし、むしろ感謝しなくちゃいけないことだと感じており、自身のメルクマールとして今後も守り抜いていきたいと思っている。
彼を通じて視えてきた世界は、それまで見えていた世界を鮮やかに変えてくれたのだから。