砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

宮台先生に「感染」したときの衝撃①

前回書いた「感染的模倣」について、最後のほうで、ありがたいことに僕にはこの貴重な体験がこれまでに2回訪れたと書いた。
1回でも起こるのがまれなはずのこの体験を2回もすることができたなんて、もうそれだけで強運の持ち主だと言っていいかもしれない。
1回目は大学に入学した直後(20歳)に、2回目は大学3年生の夏休み(23歳)に体験したのだが、その両方とも当時の状況や経緯をいまでもありありと思い出すことができる。
1回目の「感染」からすでに10年近く経ったのにもかからわず、いまだにそのときの記憶が色褪せていないのは、それほど、誰かに「感染」するという体験は衝撃的で身体に痕跡を残すものだからだと思う。
僕の場合、大げさではなく、その瞬間背中に雷が落ちた。
そのあと事あるごとに、「あの人ならこういう場合、どう考えどう行動するだろう」というふうに思考回路が勝手に動き始め、本当にその人が乗り移ったかのように、四六時中真似をせずにはいられなくなった。
自分が及ぶべくもない存在に感染するのだから、立っていたステージが一気に何段階も引き上げられたかのように感じられて、そのため一時的に無理をきたすことがあるものの、それでもやはり「感染」している瞬間は大きく成長していった。
「その人と同じレベルに立ちたい、同じ高さから物事を見てみたい」という強い衝動が成長へのアクセルとなったからだ。
いまの自分があるのは、この2回の感染体験があったからだとはっきりと断言していい。
本当にありがたい体験をさせてもらったことに、とても感謝している。

一番初めのエントリで「いっぱしの大人」になるためには知識と教養が必要だと考えて本の世界に沈み込んでいったと書いたが、その大きなきっかけとなったのが、僕に2回目の感染体験をもたらしてくれた社会学者の宮台真司先生だった。
この宮台先生の『まぼろしの郊外』を読み衝撃を受けたことで僕は本の世界にのめり込むようになったのだ。
大学在学中から卒業を経て数年ものあいだ、自身のキャリア形成などそっちのけで、ひたすら読書に勤しんだのは、間違いなく先生の影響が一番大きい。
『まぼろしの郊外』(1997年)という本は、数多くある宮台本の中ではどちらかと言うと有名な部類には入らない。
1994年に出版された『制服少女たちの選択』や1995年に出版された『終わりなき日常を生きろ』が、彼を言論界のメインストリームに押し上げるほどのインパクトを社会にもたらしたのと比較すれば、マイナーといってもいいかもしれない。
だから買ったときはただなんとなく手に取っただけで、正直そこまで期待していたわけではなかったのだが、書かれてある内容が、当時僕が抱えていた問題意識をあまりにも鮮明に言語化してくれていたのには本当にビビった。
ビビりすぎて「いったいこれは何なんだ…?!」と、残っていた二日酔いの気持ち悪さもどこかに吹き飛んでいってしまい(前日飲みすぎてこの日はお昼に起床)、気付いたらなんと続けて5回も読んでいたのには、さすがに自分でも驚いた。
いま振り返れば、社会学の基礎知識のある人が読めば、理論的にはそう斬新なことが書かれてあるわけではない。
でもあれは、単に本を読んで知識を詰め込んだだけで書けるようになる代物ではない。
多くのフィールドワークを重ねて身体で獲得した経験知を、社会学の叡智を下敷きにしながら、あのように抽象化し敷衍可能なものにまとめ上げられるのは、同じ社会学者といえども、日本中見渡しても宮台先生ただ一人しかいないだろう。
同書を読んだときの、なんとも形容しがたいあの衝撃を超えるような読書体験はその後まだ一度もない。

(続く)