砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

普通の授業なんかよりも

いまの高1が受験生だったころ、当時教えていた塾で、授業の合間合間に勉強とはまったく関係のないような話をすることが時々あった。
でも、ただ話をするだけではなくて、新聞記事を切り抜いてそれを題材にしてみたり、実際に小説などを持ってきてそれを紹介したり、はたまた授業中なのに音楽を爆音で流してみたりと、やりたいことをやりたいようにやっていて、いま振り返ればどの場面を切り取っても懐かしい記憶がよみがえってくる。
ある日の授業中には「人間が最も成長するのはどんなときか?」と銘打ったレジュメをわざわざ作って、社会学者・宮台真司先生が本などでよく話している「感染的模倣」について触れてみたこともあった。
この「感染的模倣」を簡単に説明すると、誰かスゴイ存在に触れ衝撃を受けた結果、まるでその人が乗り移ったかのように考え行動するようになることをいう。
中学生には少し難しいテーマだと思ったのだが、授業なんかよりも100倍は大事なことだから話すことにしたのだ。
でもやっぱりと言うべきか、その場いた教え子たちは何のことをこの人は話しているんだろうといった顔つきで、あまりピンときていなかったようで、残念ながら期待していた感触は得られずに終わった。
挙げ句の果てには「先生ってポエマーだね」と言われる始末…笑
なんでわざわざ、こんな成績につながらないようなことに時間を割いたのかといえば、熱心に授業だけをしていても、どうせ習ったことなんてすぐ忘れてしまうに決まっているからだ。
アインシュタインだって「教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。」と言っている。
学校や塾で習う勉強で大切なことは、多く見積もっても2割くらいしかない。
そう考えると、誰かに何かを教える仕事というのは、尊いことであると同時に虚しいことだと感じたりするが、それならいつまで経っても忘れないようなことを、授業とは関係なくても教えたいと、その当時の僕は考えていた。
レジュメの内容を、当時の教え子たちがどれだけ覚えているのかは分からない。
でも僕は、ぜひ覚えておいてほしいと思ったからこれを作ったわけで、たった1人にでも届いてくれたらそれで全然かまわない。
もしいつか、教え子が誰かに「感染」する瞬間がやってきたときに、「あのとき先生が話していたのはこういうことだったんだ」と自覚できるのと、自覚できないのとでは大きく違うはずだから。
しかも特定の誰かに「感染」するという体験は、そう滅多に起こるものではなく、それを体験できた人は幸運だと言っていいくらい貴重なことだし、それだけ話す価値のあるものだと思った。
そのレジュメ、いまここで引用したいが、授業後すぐに捨ててしまって、データも残っていないから、取っておけばよかったなぁって今更ながら少し後悔している。
要約すると確かこんなふうなことを書いた。

人間が最も成長するときはどんなときかというと、誰かに勝ちたいという気持ちや誰かに褒められたいという気持ちで頑張るときではなくて、「この人は本当にスゴイ」と理屈抜きに直感した人に出会ったときであり、「この人みたいになりたい」という強い衝動から、その人が自分に乗り移り、あたかも自分がその人自身になったかのように振る舞うときにこそ、人間は最も成長する。「学ぶ」の語源が「真似る」から来ていることを考えれば納得できる話だろう。これを古代ギリシャでは「感染的模倣」(=ミメーシス)と表現していた。

逆に言えば、「この人みたいになりたい」という強い衝動がなければ、どんなに物事を学んでも薄っぺらいものにしかならないし、学校の勉強をきれいサッパリ忘れてしまうのは、「この人みたいになりたい」という強い衝動を駆り立ててくれる存在が学校にはいないからだ。
だから若いうちは、せっせと勉強に励むのではなくて、いろんな経験をいっぱい積んで、その経験を通じて、自分にとっての「かっこいい人間」の定義を大まかにでも作っておいたほうがいい。
その定義に当てはまった人、いや厳密には、その定義の枠を大きく逸脱した存在(なんだかよく分からないけどとにかくスゴイ存在)にいつか出会って「感染」するときがやってくるかもしれないから。
そうした定義が漠然とでもなければ、誰かに「感染」する体験をしにくくなる。
勉強ばかりしていたら、この貴重な体験の訪れをみすみす逃してしまうし、それだと本当にもったいない。
そういった思いから当時、勉強するために使われるべき授業時間に、勉強とは無関係の、だけど勉強以上に大切なことを僕は話したのだった。
ありがたいことに、これまでに2回体験したこの「感染」の素晴らしさを、たとえ今はまだ理解できなくても、教え子たちと共有できたのは、僕なりの教育的使命だと思っている。