砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

21世紀社会に生きる子どもたちのための幸福論(草稿):寛容と包摂の社会を目指すリベラリズム(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑯)

3ヶ月近くにわたり書き続けてきた「宿題ばかりしているいまの子どもたち」も、今回でようやく終わりを迎えることができる。
書き始めた当初は、まさかこんなにも多くの文章を書くことになるなんて想像していなかっただけに、ほかならぬ僕自身が一番驚いている。
当然のことながら、5万字以上もの文章を書いたのは今回が初めての経験であり、参考文献をまったく使っていないだけに、もし加筆修正をおこなうとすると、10万字前後の文章にすることだってそんなに難しくはないかもしれない。
それだけの分量を書くに値する内容を扱ってきた証拠だろうか。
宮古に特化した教育社会論を展開したのは、おそらく僕が初めてである。
機会があれば、入念な聞き取り調査と資料調査、それに加えて理論的な概念分析をするための参考文献収集をおこなったうえで、もう少し筋道立った論理的な内容のものに仕立て上げてみたいと思ったりもするが、それはもっとずっと後のことになるだろう。
そもそもなぜ、このテーマで文章を書くことにしたのかといえば、その理由はやはり、自分がここ数年にわたり地元宮古で実際に接してきた数多くの教え子たちが置かれている現在の状況を目の当たりにして少なからぬ危機感を抱いたことにあり、そしてその教え子たちが今後生きていかなければならない21世紀社会をどうすればしっかりと生き抜いていけるだろうか真剣に考えたいと思ったからだった。
思うところを(教え子たちでも読めるように)平易な言葉で文章を通して伝えておきたかったのである。
いわば、この一連の文章は、これまで関わってきた教え子たちに宛てた長いながい手紙のようなものだと考えてくれたらそれでいい。
手紙とはいえ、それなりに役に立つアドバイスを各所に散りばめたつもりではいるため、参考にできるところはぜひ参考にしてもらえるのなら、これ以上の喜びはない。

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21世紀社会に生きる子どもたちのための処方箋:宮古高校普通科に通う生徒が取るべき戦略(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑮)

前回は、21世紀社会を生きていくにあたり、宮古高校理数科の生徒に焦点を合わせた具体的な処方箋について書いた。
現行の二クラス制から一クラス制にし、高校受験時の合格点を240〜250点に引き上げることで平均学力を大幅に引き上げつつ、さらには21世紀型能力の養成に重点を置いた授業も積極的におこなっていくことで、選び抜かれた21世紀型エリートを1人でも多く生み出す学科として、理数科を生まれ変わらせる提案をしたのだった。
そこで今回は宮古高校普通科の話をしていくことになるが、理数科が難関大学を目指す生徒だけが通う学科にするのとは対照的に、普通科は大学進学を積極的に目指すわけではない生徒が通う学科に定義し直すつもりでいる。
ではさっそく、以下でいくつかの理由を詳述していくことにしたい。

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21世紀社会に生きる子どもたちのための処方箋:宮古高校理数科の存在意義の立て直し(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑭)

前回は、「宿題の廃止とテストの削減と校則の緩和」について自説を展開した。
改めて簡単にまとめると、「学校的価値観を相対化し、自分が本当にしたいことのための自由な時間を確保する」ため、そして「先生との関わりを減らし、逆に子ども同士で関わる時間を増やすことで社会性を育む」ために、「学校との接点をなるべく減ら」していくべきだと説いたのだった。
この話は宮古の小学生から高校生まで広く当てはまる総体的なもので、もちろん「高学歴化」した者にも「ヤンキー化」した者にも該当するし、それどころか「高学歴化」「ヤンキー化」する以前のまだ何者でもない子どもたちにも該当する話である。
下は小学生から上は高校生・浪人生までの勉強や生活態度を見てきた数少ない経験者のうちの1人として、宮古の教育環境を根本から立て直すために取るべきだと思った処方箋を、前回のエントリーで何一つ隠し立てすることなく述べたのだが、総体的に広く当てはまる話であっただけに、本当はもう少し突っ込んだところまで言及すべきだったのかもしれない。
そこで今回は、前回の続きとして自説を拡大しつつ、高校生に特化したうえで、ややラディカルな主張を展開していくつもりでいる。
しかし、ラディカルではあるものの、ひとつの思想的態度もしくは教育的理念にもとづいた主張であることはあらかじめ言い添えておく。
前々回述べたように、マクロな共同体として救うことは無理でもミクロな個人として救うことが可能となるのなら、前回の提言含めて僕がここで提示する処方箋は、実現不可能な単なる理想論などで終わったりはしないだろう。
学校の制度ががらりと変わったりすることがあり得ないのは分かりきったうえで、それでもなお、わざわざこうしたブログを書いているのは、いまの子どもたちのなかから、いつか誰かがこのブログを読んで実際に行動に移してくれることを願っているからである。

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21世紀社会に生きる子どもたちのための処方箋:宿題の廃止とテストの削減と校則の緩和(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑬)

まず、一番初めにしなければならないことは、「宿題の廃止とテストの削減と校則の緩和」である。
前回までの記事で暗示的にでも理由をいくつか挙げてきたが、ここで改めて明示的に挙げると、宿題を廃止したほうがいい理由については3つの点に要約することができる。
1つ目は、宿題の内容が、単に記憶量を問うだけで思考力をあまり必要としない穴埋めゲームでしかなく、それと同時に漢字ドリルや計算ドリルのように機械的に反復練習をすることで事務処理能力を高めることに役立つものでしかないからである。
2つ目は、21世紀型能力を鍛えるには早めに学校的価値観を相対化しなければならず、「学校化社会」に染まりきらないためにも、学校との接点をなるべく少なくする必要があるからである。
家に帰って真面目に宿題に取り組む行為は、授業が終わって学校の外に出たのに、相変わらず「学校化社会」のなかにとどまっている状態にあることを意味している。
これでは、事態対応力もしくは状況処理能力が求められる流動的な21世紀社会では「食っていく」ことができない可能性が高くなってしまう。
宿題をしても、批判的思考力も対話力も自己表現力も身につけることができないだけでなく、むしろそうした21世紀型能力の養成の妨げになるとすら言えるため、宿題は無益どころか有害とさえ言えるのではないだろうか。
さらにもう一点付け加えると、宿題や家庭学習を毎日課されることで、勉強ができない子どもたちが、学校のなかで自己肯定感を剥奪されているのではないかと以前分析したように、宿題を廃止することで、たとえ勉強ができない子であっても、学校のなかで自己肯定感を失わずに、周囲の子たちと学校生活をともに最後まで過ごす道筋を残していけると期待が持てるからである。
自己肯定感を失わなければ、中学卒業後に学校教育をドロップアウトする生徒は減っていくだろうし、高校に進学後中退せずにちゃんと卒業できる生徒も増えるだろう。
結果的に「ヤンキー化」する中高生の数が減ることで、中高生の二極化が避けられ、分厚い中間層を維持し続けることにもつながっていくはずだ。
あらゆる二極化を推進するグローバル化社会に少しでも対抗する手立てを取るために、打てる手はすべて打っといて無駄ではないと僕は考える。
グローバル化社会自体には賛成する立場を取るが、グローバル化社会がもたらすマイナスの面まですべて肯定するつもりはなく、良い面を享受しつつ、どうにか悪い面を抑える努力はしていきたい。

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「先進化する都市と荒廃化する地方」に二極化する21世紀社会(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑫)

「宿題ばかりしているいまの子どもたち」も今回で12記事目を迎え、いよいよ終わりが見えるところまでやってきた。
「批判的思考力」「対話力(コミュニケーション力)」「自己表現力(情報発信力)」と、直近3回にわたり、21世紀型能力について、かなりの文字数を使って書いてきた理由は、これらの能力がなぜ(20世紀ではなく)21世紀に必要な能力なのかを論理的に示すためだった。
20世紀と21世紀の違いがどこにあり、21世紀とはいかなる時代なのかを社会構造的に読み解いていけば、僕が挙げたいくつかの能力が、なぜ21世紀において特に求められる能力なのか理解できるはずだと考えたのである。
ここまで見てきたように、21世紀を表す仕方はいくつかあり、成熟社会、グローバル化社会、情報化社会などさまざまな方面からひとつの時代を観察することはとても有益なことで、このように複眼的に物事を見ていくこともまた、21世紀が単線的な生き方ではなくて複線的な生き方が必要になる時代であることを考慮すると、21世紀型能力のうちのひとつに数え入れてもいいだろう。

さて、ようやく終わりが見えてきたこともあり、今回からは話を本筋に戻して結論に近づけていきたいと思う。
過去3回にわたり21世紀型能力がなぜ必要なのか書いてきたのは、その直前のエントリーで、宮古の小中高ではいまだに20世紀的価値観のなかで学校教育がおこなわれており、そのために、学校に通う子どもたちにとってほとんど意味がないようなことばかりが横行している現状を危惧したからだった。
おさらいしておくと、20世紀的価値観とは、学校的価値観が学校の外にまで蔓延した「学校化社会」において子どもたちを評価するための基準となる価値観のことであり、重箱の隅をつつくような些細な知識まで含めて記憶量がどれだけあるのかを競い合ったり、あるいは数多くのパターン化された問題を時間内にどれだけ処理できるか事務処理能力を競い合ったりなど、IT化やAI化が進む21世紀では機械が代替してくれるような能力の獲得に重きを置いている価値観のことを指す。
それだけでなく、学校の先生に従順に従い、宿題や家庭学習を真面目に頑張ったり、校則を固く守ったりなど、いかなる規律もはみ出さないで、品行方正な生活態度で大人にいい顔できる人が一番高い評価を受けることができるのも、学校的価値観すなわち20世紀的価値観は内包している。
これらの所業がいかにバカらしく、ましてや21世紀においては、むしろ不利益を被る要素になり得るものであると説明したかったがために、これらとは対照的な能力として過去3回にわたり21世紀型能力について述べてきたのである。
「学校化社会」によって生み出された「高学歴化」した者と「ヤンキー化」した者とに子どもたちが二極化した結果として、社会が実質的に分断されてしまい、一見、「高学歴化」した者には特に問題があるようには見えなかったものの、実は彼らとて20世紀的価値観の信奉者であることに変わりがない以上、成熟社会、グローバル化社会、情報化社会となった21世紀においては生き抜いていくことができなくなるということも、分析の結果浮かび上がってきたひとつの事実だった。
むろん「ヤンキー化」した者は言うまでもない。
20世紀的価値観のなかで生きる点においては同じ穴のムジナである「高学歴化」した者も「ヤンキー化」した者も、両者問わずどちらにおいても、21世紀型能力を獲得することはいまや急務の課題である。

以前AERAの記事を取り上げたように、先進的な都市部の学校では、21世紀型能力の養成に向けた取り組みが盛んに行なわれていると紹介したが、僕の故郷である宮古含めて地方が、ここで遅れを取ると、都市と地方のあらゆる格差はますます広がっていくばかりであり、そうなってしまうと地方が荒廃していく命運は避けられそうにない。
都市と地方の関係性や格差については別途記事を改めてまた書きたいとは思っているが、ここで少しだけ言っておくと、残念ながら地方創生や地域振興はまやかしの言葉であり、地方が活気を取り戻すことは今後二度とないと思われる。
経済的に見れば、今後の日本は東京や大阪などの大都市圏がその他多くの地方を支えていくしか道はなく、都市と地方の両者は、まるで同じ国とは思えないほどに社会環境も価値観も何から何まで共有できるものを持っていないという段階にまで進んでいくだろう。
驚くべきことに、一国のなかにグローバル都市と発展途上国が並存するかのような状況が生まれるのである。
21世紀が「都市の時代」だと言われる理由はここにある。
いま述べたことは、社会構造的に見て避けられない将来的な事実であることは間違いがないだろうから、宮古含めて地方が荒廃していく命運に楔を打ち込もうとするのは、正直なところ、あまり意味はないと個人的には考えているが、それでもなお、もし何か対策を取るならどうすべきかについて、仮設的であっても思考し文章を書いて公表すること自体には意味があると思いたい。
仮に地方荒廃が将来的に避けられなかったとしても、このブログ記事を読んでくれた一人でも多くの人に何かしらの気付きが与えられるのなら、マクロな共同体としては無理でも、ミクロな個人としてなら、ひょっとしたら救うことができるかもしれないからである。
特に宮古の子どもたちに届いてくれれば、それ以上望むことは何もない。

では、実際に具体的な対策をどう取っていくべきだろうか。
次回その内容を示していく。

(続く)