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砂川浩範の日記

自分の頭で考えたことを週1~2ペースで更新予定。

21世紀型能力のうちのひとつ「対話力(コミュニケーション力)」について(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑩)

前回書いた文章は数時間で書き上げてみたものの、一見教育とは関係のないような話を切り口にしたため、そのあとで教育に話を持っていくための論理展開をどうしていけばいいのか、少し難しく感じた。
5500字を超える文章になったのも、論理の組み立て方に四苦八苦したことが原因になっている。
3月の終わりごろから1ヶ月以上かけて書き続けてきた一連の「宿題ばかりしているいまの子どもたち」も今回で10記事目を迎え、合計の文字数が現在のところ20000字を優に超えており、最終的には25000~30000字に到達しそうな勢いであることを考えてみると、書き始めた当初はまさかここまでのものを書くつもりじゃなかっただけに、一番驚いているのはほかならぬ僕自身であることは間違いない。
完全に後付けた理由にはなるが、一連の文章群をある種の”卒論”として位置付けたいと個人的には考えている。
平均文字数が20000~40000字程度の卒論に相当しそうなだけの文字数を曲がりなりにもここまで何とか書くことができ、それに加えて卒論が大学4年間の総括である点を考慮に入れると、今回の一連の文章は、僕が大学卒業後宮古に戻ってきてからの約4年間(正確には3年半)に経験したこと、見聞きしたこと、そして思考してきたことの総決算として書かれたものとして位置付けていいのではないか。
もちろんどうぞご勝手にと言われればそれまでだが、いずれにせよ、参考文献などをまったく用いずに、30000字近くの文章を書けるなんて当初は想像できなかっただけに、自分でもいまとても驚いている。
長くなったので前置きはここまでにしておこう。

前回は21世紀型能力のうちのひとつ「批判的思考力」について書いたが、今回は「対話力(コミュニケーション力)」について書く予定だった。
いきなりちゃぶ台をひっくり返すようなことを先に言っておくが、僕は「コミュニケーション力」という言葉が実はあまり好きじゃない。
というのも、この言葉には何だか薄っぺらな表現を耳にしたような響きがあるし、それだけじゃなく、この言葉を聞くと、中身が全然備わっていないのにただ単に口先だけが達者な人間を無意識のうちに想像してしまうからである。
おそらくそのような想像をするのは僕だけではなく、ほかにもたくさんいるのではないかとは思う。
しかし、「コミュニケーション力」と一口に言っても必ずしも一義的に定義づけられるわけじゃないことは今一度確認しておきたい。
同じ言葉として使ってはいても、場合によっては各自まったく異なる定義のもとで用いている可能性があるほど、「コミュニケーション力」は幅広いというべきか漠然としているというべきか、どちらにしても、きわめて多様な使い方ができる言葉である。
したがってまず第一に、「コミュニケーション力」を限定的な意味に制約するところから取りかかっていかなければ、いずれどこかで行き詰まってしまうことが目に見えている。
やや説明が過ぎるきらいがあるが、それでもなお、可能な限り誤解を生まないようにしておきたいと考えてのことだと分かってもらえるととてもありがたい。

21世紀型能力のうちのひとつに位置付けたことを勘案すると、「コミュニケーション力」とは、以下のように定義づけることができる。
すなわち、生まれも育ちも価値観も、さらには文化的社会的な背景までまったく異なる他者(異質な他者)であったとしても、彼らを理解したうえで、対話を積み重ねていくことができる能力のことである、と。
僕が21世紀型能力をいくつか列挙した際に、「対話力(コミュニケーション力)」とカッコ付きで記した理由はここにあるが、何から何まで自分と異なる相手と接する場合だけじゃなく、ある程度共通するものを持っている相手(たとえば日本人)とのやり取りの場合であっても、当然のように「コミュニケーション力」が必要になってくる。
ただし、ここで注意すべきは、相手と何らかの共通点を有している場合にこそ、より一層「コミュニケーション力」が求められるという点である。
なぜなら、自分と何らかの共通点を有している相手を「異質な他者」として捉えることは、口でいうほど簡単なことではないからだ。
外国人と接するときとは違い、確かに日本人同士なら、わざわざ口に出さずとも相手と意思疎通ができる場合が多い。
しかしだからといって、海外に行かずに日本にとどまれば、それほど「コミュニケーション力」を求められることがないかといえば、決してそんなことはない。
前回、戦後日本経済史を産業構造の変化から見ていった際に、国民的な「単一の答え」が消え失せてしまった時代が21世紀型の成熟社会であると分析した話を覚えているだろうか。
もし忘れてしまったのならここでもう一度思い出してもらいたいが、この分析は、前回の「批判的思考力」にだけでなく「コミュニケーション力」を考える際にも非常に有効に応用することができる。
「ほかの誰かが欲しいものは自分も欲しい」という共通見解が成り立たなくなった21世紀型の成熟社会では、日本人の間においてすら、何が答えなのか、「単一の答え」を導き出すことができなくなったわけだが、だとすれば、共通見解が存在していた20世紀型の成長社会とは違い、いまの時代は、生まれた国や性別あるいは世代を共通項として仮に持っていたとしても、その相手を「同質的な他者=自分と似た相手」と捉えることがますます難しくなってきているのだと考えざるを得ない。
つまり、言葉にあまり頼らずにただ察し合うだけで、お互いが何を考えているのか把握することができるという考え方がきわめて困難になっているのだと捉えたほうがいいのではないかということである。
海外に行かずに日本にとどまり続けたとしても、「コミュニケーション力」は、単に必要であるどころか、ましてやより一層必要とされるような時代になった理由がこれで分かるはずだ。
ましてやグローバル化した時代である。
1990年代の世界的な経済危機のあと、グローバリズムの影響により、他国との交流が劇的に増えた結果、(一般的な意味での)「異質な他者」と関わる機会を意図的に避けることができなくなってしまい、これまでのように日本国内で普段と変わらない生活を営むだけであったとしても、今まで以上に「コミュニケーション力」が必要とされる場面がますます増えてきた。
勘のいい人ならお気づきのように、成熟社会=グローバル化社会であるがゆえに、21世紀は、「単一の答え」を共有していない「異質な他者」の存在が、日本国内外問わず、いたるところで顕在化してきた時代であるとの認識がきわめて重要なものとなってきたのだ。

以上の分析によって明らかになった点を、ここでいったん整理しておく。

1、「単一の答え」が消え失せた成熟社会においては、同じ日本人ですら「同質的な他者=自分と似た相手」と見なすことが難しくなった。
2、成熟社会=グローバル化社会の等式が成り立つ。
3、グローバル化社会の影響で「他国の人々=異質な他者」と関わる機会が劇的に増えた。
4、したがって、たとえ誰が相手であろうとも、基本的には「異質な他者」として扱うことが重要になってきた。
5、「異質な他者」を理解したうえで、彼らと対話を積み重ねていく能力を「対話力(コミュニケーション力)」と定義する。

ようやく「対話力(コミュニケーション力)」を限定的な意味に制約するところまで来ることができた。
そして、ここから教育の話につなげていこう。
「対話力(コミュニケーション力)」が、21世紀を生きていくにあたって必要不可欠な能力のうちのひとつなのだとしたら、早い段階で身につけておくのが望ましいことは言うまでもないのだが、果たして従来の学校教育で身につけられるものなのかどうか聞かれると、前回の「批判的思考力」同様、やはり、きわめて難しいと答えざるをえない。
従来の学校教育で日常的に見られるような、教師が教壇の前に立って、生徒や学生に対し、一方的に講義を授けるような形式の授業内容だと、他のクラスメイトや出席者と対話をする機会を与えられることがないのだから、「対話力(コミュニケーション力)」を身につけることがきわめて難しいのも、当然といえば当然である。
ひるがえって、近年日本でもよく耳にするようなアクティブラーニングの源流にあたる欧米式の授業では、学校教育の早い段階から、体験学習やグループディスカッションあるいはディベートを中心としたスタイルを取ることが多いために、自然と「対話力(コミュニケーション力)」を鍛える環境が整っているといっていい。
国民性の違いもあるだろうが、単一民族で構成されているわけではない欧米諸国では、日本のように、相手が何を考えているのか察することがそもそも難しく、お互いに自分の考えていることを説明し合わなければ、意思を疎通することができないといったような事情も、ディベート教育等が盛んな理由のうちのひとつだろう。
21世紀に差しかかる時期に成熟社会とグローバル化社会を同時に迎え、「単一の答え」が消え失せた現在の日本は、「察し合う文化」から「説明し合う文化」への移行がもはや避けられない状況にある。
お互いが何を考えているのか対話を通して伝えていかなければ、意思の疎通を図ることができないほどにまで、「異質な他者」の存在を前提にした対話の必要性が強く求められている所以はここにある。
だとすれば、なるべく早い段階から、自分の意見を相手に納得してもらえるように伝える手法の習得を目指した学習プログラムを、学校教育のなかに取り入れていくのが当然なのは言うまでもないことではないだろうか。

すでに東京などの都市部では、時代状況の変化に合わせた授業スタイルを取り入れる学校が出てきている。
作家の恩田陸が表紙を飾る3月27日付けのAERAには、21世紀型能力の習得に向けた先進的な取り組みをおこなう中学校や高校がいくつか紹介されていた。
同書によれば、都内にある青山学院高等部の高2の英語の授業では、たとえば、"Discussion in Heaven"と題して、ケネディ大統領やマザー・テレサあるいは坂本龍馬などの歴史上の偉人のなかで誰か一人を蘇らせるとしたら誰にするのか議論することがあるという。
高3時には、アメリカのノンフィクション作品を半年かけて読み込み、最終的に「赦しとは」「生きるとは」「年を重ねるとは」といったテーマで30分のプレゼンをおこなったりしているとのことで、また、青山学院大学に通う留学生と一緒に、移民やLBGTなど世間の関心度が高い社会問題について議論するなどの多彩なプログラムも用意されているらしく、従来の学校教育からは想像もつかないような試みが実際になされている。
ほかにも、東洋大学京北中学校では、哲学者の井上円了が創設した学校として、哲学を根底に据えた教育をしたいとの考えから、哲学が必修授業になっており、教師や生徒が問いを立てて、その問いに対し意見を交換する形式になっているそうだ。
これらの例を、都市部の中高一貫校あるいは大学付属校だからこそ実現できた取り組みじゃないかと言われれば確かにそれまでだが、とはいっても、21世紀型能力の開発に向けた学習プログラムを用意している学校が存在することに変わりはない。
青山学院高等部がグループディスカッションをおこない、東洋大学京北中学校が正解のないテーマを題材にした意見交換会を授業に盛り込んでいるのは、明らかに「対話力(コミュニケーション力)」を養成していこうとする動機から出発している。
成果が出ているかどうか一朝一夕で判断できるものでもなければ、改善の余地もまだまだたくさんあるとは思うが、これら多彩な取り組みが成功しているかどうかを吟味する前に、取り組みがおこなわれていること自体まずは評価に値するだろう。
なぜなら、ほかの大半の学校は、そのような取り組みをするかどうか考えたことすらないのが実状だからである。
いま、時代の移り目に真剣に向き合おうとする学校とそうでない学校、あるいは向き合うことが可能な学校と向き合いたくても向き合えない学校とで、大きくふたつに分断されようとしている。
21世紀における格差は、こうしたところから生み出されていくのだろう。
すなわち、20世紀に取り残される者と、21世紀に進む者とのあいだで。

(続く)

21世紀型能力のうちのひとつ「批判的思考力」について(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑨)

近年さまざまな識者が至るところで論じるようになった「21世紀型能力」だが、人によってはもしかしたら馴染みの薄い概念かもしれない。
ここ数年にわたり繰り返し論じられてきたにもかかわらず、「21世紀型能力」についての言説がいまだ一部の人々のあいだでしか浸透していないのは、「20世紀型能力」の獲得に重点を置いてきた従来の知識偏重型教育あるいは偏差値至上主義などと形容される日本の教育システムが、相当深いところで僕ら日本人のなかに根付いていることの表れだと見なすことができるからなのかもしれない。
そこで今回は、前々回から言及しているこの「21世紀型能力」について、もう少し詳細な説明を加えていきたいと思う。

前回僕は「21世紀型能力」を「社会性にフォーカスした能力」と一言で表現し、「思考力・判断力・表現力(発信力)・対話力(コミュニケーション力)・事態対応力」といくつかの項目に分類した。
これらの能力を具体的に論じる前に少しだけ理念的な話をすると、「21世紀型能力」とは「異質な他者の存在を前提とした能力」と言い換えることができる。
異質な他者の存在を前提にして物事を考え行動できる人のことを、普通僕らは「社会性に富んだ人」などと呼んだりするが、イメージを湧かせやすいように、社会構造の変質を下敷きにしながら、「21世紀型能力」について、以下で具体的な説明を順に展開していこう。
なお、文字数の関係上、「異質な他者の存在」云々についての話は次回以降に譲ることにした。

まずは"思考力"について。
限定的な形容詞をつけると、思考力とは"批判的思考力"のことを指す。
当たり前だが、僕らが生きる実社会には「単一の答え」が存在しない。
「単一の答え」が存在しないのなら、僕らは自分なりの正解をその都度都度で導き出していかなければならないが、その答えが自分にとっては正解でも、他の誰かにとっては不正解ということが実社会ではかなりの確率で起こり得る。
もちろん、「単一の答え」が存在しないのは今も昔も同じである。
しかし社会秩序が極めて流動化した現代は、以前と比べても比較にならないほど、他者とは違う自分なりの解をより一層求められている時代だと言える。
より包括的に論理立てていけるように、ここで社会構造の変質を補助線に用いてみよう。
T型フォード車に代表される20世紀型の産業製品は、少品種大量生産型の社会の到来を意味するものだった。
それは、周到に設計された労務管理法を用い、作業効率を高めながら製品を単純化、部品を標準化していった結果、大量生産と大量消費を実現可能なものにした社会である。
このような経営思想あるいは生産システムを、社会科学系の学問では「フォーディズム」と定義づけている。
まだ発展の途上にあった戦後日本(=成長社会)の一般的な家庭では、三種の神器や3Cなど、何が欲しいのかについての共通見解が国民のあいだにはっきりと存在しており、誰もが欲しいと感じる数少ない製品を大量に生産して日本全体に広く行き渡らせていくことが、敗戦を乗り越え、再び繁栄の道を歩もうと活気立つ高度経済成長期における日本の姿だった。
この辺りは戦後日本経済史の基本的な話なので、詳しくは専門家が書いた書籍に譲るが、ここで手短に語るとすれば、「他の誰かが欲しいものは自分も欲しい」という意識構造が戦後の日本では数十年もの長きにわたり続いてきたのだった。
先ほど、僕らが生きる実社会は今も昔も「単一の答え」が存在しないと述べたが、興味深いことに、1990年代に入るまでは、車やテレビあるいは持ち家など、欲望の所在がどこにあるのか、あたかも「単一の答え」が存在するかのように人々は考えていた。
この現象を学問的には「近代過渡期」と呼ぶことも、一応のところ常識の範囲内に収めていいだろう。

しかしながら、1990年代の世界的な経済危機を一つの境目にして、日本を含め先進諸国では「近代過渡期」から「近代成熟期」へと時代が移り変わっていく。
この時期、日本では不動産バブルが崩壊し、韓国やインドネシアそしてタイなどのアジア諸国では通貨危機が起こり、さらには2000年に入るとアメリカではITバブルがはじけたが、今にして思えば、この世界的な経済危機は、先進諸国が「成長社会」から「成熟社会」へと社会構造を変質させていく過程で発生したメルクマールだと捉えられるかもしれない。
1970年代に起きた石油危機をきっかけにして、安定成長からマイナス成長へと進んでいくにあたり、高度経済成長期を終えた日本社会は、1990年代初頭のバブル崩壊によって「成長社会」から「成熟社会」に移行していったと今しがた述べたところだが、その過程は、第二次産業中心の社会から第三次産業中心の社会へと産業構造が変化していった時代だと見ることもできるし、あるいは、「工業化社会」から「サービス産業社会」へと変化していった時代だと見ることもできる。
いずれにせよ、1990年代を境目にして社会構造が大きく変わりつつあったことは事実で、その変化に合わせるように、「フォーディズム」から「ポスト・フォーディズム」ともいうべき現象、すなわち少品種大量生産型の社会から多品種少量生産型の社会へと、労働の在り方や消費行動にも変化が見られるようになる。
高度経済成長期を経験したのちに一億総中流社会を実現した1980年代以降の日本では、文化的な最低限度の生活を営むうえで必要なもの(上記した三種の神器や3Cなど)は、どの家庭においてもおしなべて行き渡っていたために、「他の誰かが欲しいものは自分も欲しい」という共通見解がいつしか成り立たなくなってしまい、欲しいものが人それぞれ異なっていくようになる。
誰かが欲しいものはもうすでに自分も持っているーー。

だとすれば、必要最低限度のものを国民全体が手に入れた結果として、自分が欲するものは他の誰かが持っていないものへと変わっていき、これまで広く行き渡っていた国民的な共通見解すなわち「誰かが欲しいものは自分も欲しい」という意識構造が徐々に失われていくのも当然の成り行きだと言えるだろう。
もはや単に走るだけの車が欲しいのではなくて、ある人は「走行中にも視聴可能なテレビが搭載された車」が欲しいと考えるかもしれないし、また別のある人は「そんなテレビは要らないから、対向車が現れたときに自動でハイライトをOFFにする機能を備えた車」が欲しいと考えるかもしれない。
あるいは単に電話とメールができるだけのケータイが欲しいのではなくて、ある人は「Android OS仕様の、SIMロックが解除されているスマホ」が欲しいと考えるかもしれないし、また別のある人は「iPhoneの最新機種が発売される度に買い替えたい」と考えるかもしれない。
つまり、「単一の答え」が消えてなくなり、誰かにとっての正解は必ずしも自分にとっての正解ではなくなったという認識が、成熟社会を迎えた日本の新たな意識構造として広く共有されるようになっていった。
逆説的に聞こえるかもしれないが、共通見解が存在しないという認識が人々の共通見解になったのが、成熟社会を表す一つの特徴だったと言っていい。
この興味深い現象を、社会学者が「再帰的近代化(reflective modernity)」と呼び、哲学者が「ポストモダン(post modern)」と呼んできたのは周知の通り。

ここまで現代社会論の基本的なフレームワークを用いながら話を進めてきたが、ここからは"批判的思考力"に話を戻して、ひとまずの結論にまで持っていくことにしたい。
上述したように、「単一の答え」が消え失せた21世紀の成熟社会においては、他の誰かの答えが自分にとっての正解になるとは必ずしも言えず、自分以外の誰かの意見を鵜呑みにすることには大きな危険性が潜んでいるがゆえに、何事につけ、自分以外の誰かが持っているさまざまな意見・主張に対して批判的に考える力が要求される。
しかし、「20世紀型能力」を培うことを目的とした従来の学校教育では、この"批判的思考力"を養うことがきわめて難しい。
なぜなら、誰もが知っている通り、学校のテストや受験入試では「単一の答え」を導き出すことしか要求されていないからだ。
皆さんはテストや入試の場面で、作者の意見や主張について異議を唱えていい問題が出題されるところを見たことがあるだろうか。
残念ながら僕はない。
基本的な出題のされ方はこうである。

「問3 傍線部B「人びとに共通の枠組みを提供していた『大きな物語』」とあるが、この場合の「人びと」と「大きな物語」の関係はどのようなものか。その説明として最も適当なものを、次の①〜⑤のうちから一つ選べ。」

これは平成28年度のセンター現代文で出題された問題をそのまま転載したものだが、ここから分かるように、出題者が作者の意見や主張を「単一の答え」として設定し、問題文からその「絶対解」を探し出してもらう(すなわち忖度させる!)形式で出題されている。
最も適当な選択肢以外はすべて誤りで、したがって正解の導き出し方は、他の選択肢が間違いだと断定できる部分を探し出す以外にはない。
つまり先生が生徒の成績を付ける場合と同じように、減点方式に則って正解を探し出していくしかないのだ。
こういう問題を解かされることに慣れると、まるであらゆる物事が正解か不正解かの二者択一で割り切れるのではないかと錯覚する人が出てきたとしてもまったく不思議ではない。
その点、小論文はとても良いテストだと言える。
唯一小論文のみが、自分の意見を論理的に展開していいテストだからである。
しかし、それ以外の教科は基本的に作者の意見や主張を「単一の答え」として出題者が生徒に忖度させるのだから、これでは到底、自分以外の誰かの考えに対して批判的に考える力を身につけることなど土台無理な話だと言うほかない。
ひるがえって国際バカロレアの入試問題はこうである。

少数民族の迫害の主な原因は何か?具体例を挙げて答えよ。」

「1945年から1949年の冷戦の発生と進展においてソビエトの政策はどの程度まで責任があるか?」 

そのほか、たとえばイギリスのセンター試験にあたるA-level試験の政治学分野では、

「イギリスで政治参加と民主主義が強化されるための、種々の方法の有効性を論じよ。」

と出題された年があったらしい。
日本の受験入試の問題形式とだいぶ性質が異なることが分かるだろうか。
ここでは選択肢も正しい答えも用意されておらず、採点者に納得してもらえるようにひたすら自説を論理的説得的に展開していくことだけが求められている。
批判的思考力を身につけるためにはどちらの方式が試験問題としてふさわしいのか、ここまで来ればもはや明言する必要はない。

以上見てきたように、誰かの正解が必ずしも自分にとっての正解ではなくなった21世紀の成熟社会においては、"批判的思考力"こそがまず第一に獲得されるべき能力だと言っていい。
だからこそ、従来の学校教育の在り方を見直して、「単一の答え」しか存在しないような問題の出し方から、(場合によっては出題者が思いつかないような解まで含めて)複数の答えが考えられるような問題の出し方を可能にする方向へと転換していくことが、いま強く求められるようになってきたのだ。
リクルート出身で東京都初の民間人校長を務めた藤原和博は、成熟社会においては「正解」ではなく「納得解」を見つけ出すことが重要だと、もう何年も前から主張している。
「納得解」とは、正解か不正解かはっきり断定することのできない問いに対して、自分自身が納得できるようになるまで批判的に思考したのちにようやくたどり着ける解のことを指す。
正解が用意されていないのだから、正解が与えられた問いに答えるよりも、より多くの時間が必要になるのは当たり前で、ある程度の訓練を積まない限りは、どう答えを導き出していいのか、普通の人ならはじめは戸惑うだろう。
しかし、現実の社会では自分だけの正解をいちから作り上げていかなければならない場合が多く、時には権威や前例に反する答えを出すしかないような事態に遭遇することだって往々にしてあるはずである。
たとえ、自分より知識が豊富で経験が豊かな目上の者であっても、盲目的に信用せずに批判的な目を常に向けていくこと。
21世紀を迎えたいまの時代に「学校化社会」がその役目を終えたのは、先生の言うことに素直に従わなければ成績を下げられるという一方的な評価システムが、先生に対して批判的な目を向けること自体許されないような仕組みを作り上げ、そうして次第に先生をつけあがらせ、挙げ句の果てに批判的に物事を考える機会を子どもたちから奪ってしまうからである。
20世紀の「学校化社会」では、(悲惨なことに)先生が「単一の答え」だった。
しかしいまや実社会において「単一の答え」など存在しない。
誰かの答えになんて(ましてや先生の意見になんて!)寄りかからずに、自分にとっての正解は一体何なのか、他の誰かにとっての正解を考慮に入れながらも、粘り強く批判的に考えていくことこそ、僕らが生きる21世紀においてきわめて重要な能力だということが、これで分かってもらえただろうか。

あまりにも長くなってしまって正直前編と後編に分けたほうがいいのではないかと思ったが、しかし今回はあえて分けずに投稿することにした。
次回は、表現力(発信力)と対話力(コミュニケーション力)について述べる予定で考えている。

(続く)

21世紀型能力について(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑧)

ここ数年にわたって宮古の中高生のあいだで起きた「高学歴化」は、一見望ましいことであるかのように見えながら、実は20世紀的価値観のなかで生じた現象であったために、21世紀に入ってから20年近くが経とうとしているいまの時代には、ほとんど意味を失っていると書いたところで前回の話を終えた。
前々回まで、「学校化社会」という現象の陰の部分として「下層化する」ヤンキーたちを描写し、それとは対極的に「高学歴化」した中高生たちを光の部分として位置付けてきたのだが、ここまでの考察の結果、この分類の仕方にはどうしても無理があることが分かった。
それもそのはず。
両者とも20世紀的価値観のうえに成り立つ「学校化社会」によって生み出されたのだから、21世紀的価値観が重視される現代社会においては、両者を対極にあるものとして記述することはもはやできるはずがなく、そのように対比すること自体すでに無効となってしまったからだ。
別の話を例に出すなら、19世紀と20世紀には有効だった右翼と左翼の対立構造が21世紀には実質的に無効になり、その代わりに「世界を自由に動き回る者(=グローバル化した者)」と「一か所にとどまり続けることしかできない者(=ローカル化した者)」との間の対立構造に取って代わったのと似ていると言えなくもない。
すなわち左右の対立から上下の対立への変化だ。
このように、対立構造は時代によって常に変わっていくものなのだが、ここで気を付けるべきは、いま有効な対立構造が一体何なのか慎重に見極めることにある。
でないと、前時代でしか通用しなかった対立概念をいまだに使い続けて、社会現象を捉えるさいに的外れな捉え方をする危険性に陥ってしまうだろう。
説明が長くなったが、いまの時代に必要かつ有効な対立構造は、「高学歴化」した中高生と「下層化」したヤンキーとの間にあるのではなく、「学校化社会」の枠の中から脱して21世紀的価値観を自身の足元に据える中高生と、「学校化社会」の枠内に留まっていまだに20世紀的価値観に拘泥する中高生との間にある。
この図式は非常に重要なのでぜひ忘れないでほしい。

かなり以前から議論されてきたように、学校の成績が良かっただけの(いわば事務処理が得意な)人間ではなくて、急な状況変化にも臨機応変に対応できる能力のある(いわば状況処理が得意な)人間のほうが、いまの時代は、社会に出てから活躍できることが分かっている。
前者は「学校化社会」で良しとされてきた学校的価値観すなわち20世紀的価値観を基準とした場合に高評価を受ける人間だが、それとは対照的に、後者に属する人間は「学校化社会」のなかでは必ずしも高い評価を受けてきたわけじゃない。
どちらかと言えば、勉強が得意と言えるほど学力が高かったわけでもなく、学校の先生をはじめとする周囲の大人たちには一目置かれるような存在ではなかったケースが多い。
ただし、「下層化」したヤンキーたちとは違い、致命的なレベルで勉強ができなかったわけではない点には注意したい。
いわゆる「お勉強」ができなかっただけで、その他の分野で秀でた能力を発揮することができるところが、「高学歴化」した中高生とも、「下層化」したヤンキーとも違う。
むろん、宮古の「高学歴化」した中高生は前者に属し、20世紀的価値観に限れば高い評価を受けてきたのは言うまでもないが、しかし21世紀的価値観を評価軸に据えた場合に置き換えてみると、先ほど述べた話とは逆に、彼らが必ずしも高い評価を受けるとは限らない。
それどころか、(急な状況変化に対応しきれないがゆえに)社会に出てから「使えない」人物と見なされる場合だって往々にしてあるのが、「高学歴化」した果てに行き着く日本型受験エリートの姿だと言っていいかもしれない。

前回述べたように、取るに足らないようなものまで含めて知識がどれだけ頭の中に入っているか”記憶力”を問う形式のテストや、パターン化された典型的な問題を時間内に数多くこなしていく”事務処理能力”を問う形式のテストが、たとえどれだけできるようになったとしても、1990年代の世界的な経済危機のあと、グローバル化が急速に進展した結果として社会が過剰に流動化した現代においては、ほとんど役に立たない。
では21世紀において必要な能力とは一体何なのかといえば、それは、前回挙げた例をもう一度繰り返すことになるが、「思考力・判断力・表現力(発信力)・対話力(コミュニケーション力)、事態対応力」といったような、学校のテストや受験入試の点数でははかることのできない能力を指す。
これらの能力を、僕は前回、「21世紀型能力」と呼んだが、一言でいえば、「社会性にフォーカスした能力」と表現することもできる。
しかし残念なことに、いまの宮古で、この「21世紀型能力」の習得に着目し、実際に対策を講じている学校や塾は存在しない。
辟易するほど膨大に課された宿題や家庭学習の量、やってこない生徒に対する居残り学習の義務付け、放課後の買い食い禁止や漫画や雑誌などの学校への持ち込みの禁止、あるいは些細な事ですぐに開かれる全校集会など、校則をどんどん厳重にし、まるで子どもたちの自主性や創造性をわざと殺ぎ落としていくことを目的としているのかと疑いたくなってしまうようなこうした現状が、残念ながら、宮古の学校教育の姿である。
とてもじゃないが、21世紀を生きるいまの子どもたちにためになっているとはお世辞にも言えず、たとえ一部の中高生が「高学歴化」したとしても、その他大勢の中高生にとっては有害でしかない以上、「学校化社会」のどの面を切り取っても弁明できる余地はない。

(続く)

20世紀的価値観のなかで勉強に励む「高学歴化」した宮古の中高生(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑦)

宮古のいまのヤンキーたちの実態について、「学校化社会」を下敷きにしながら、⑤、⑥と文章を書き連ねてきたが、7記事目となる今回は、「高学歴化」した中高生たちに話を戻して書いていこうと思う。
というのも、「高学歴化」した宮古の中高生たちを、「学校化社会」の光と影の「光」の部分にこれまで位置づけてきたのは、本当に正しかったのか今一度考えてみたいからだ。
以前書いたように、近年の宮古高校の大学合格実績は以前とは比較できないほど目覚ましいものになっている。
これは明らかに「学校化社会」によってもたらされた賜物だと言っていいだろう。
その点には完全に同意する。
ただ、今回僕が問いたいのは、いまの時代に毎日の宿題や家庭学習の義務付けを課すような教育を小学生や中学生のうちからすることに一体何の意味があるのかという点についてと、そして、高校入学してから間もないうちに受験を意識した勉強をさせることに、これまた一体何の意味があるのか疑問を投げかけてみたいからだ。
20世紀までなら、島あるいは学校を挙げて、このような教育をすることに少なからず意味はあったかもしれない。
しかし、いまは20世紀が終わってすでに20年が経とうとしている2017年である。
20世紀など、もはや遠い過去の話でしかない。
にもかかわらず、20世紀で良しとされてきた価値観(すなわち「学校的価値観」!)をいまだに評価基準の根幹に据えて学校教育が行なわれているというのは、まるで20世紀で時間が止まってしまったかのような錯覚を覚える。
沖縄の人が自らの島を自虐的に形容するときによく使われるフレーズのひとつに、「沖縄は本土に比べて30年遅れている」というのがあるが、この言葉は、あながち間違ってはいない。
ただし、本人たちが意図するところとは別の意味で。
30年遅れているのは、経済というよりもむしろ教育のほうである。
すでに東京では、20世紀的な学校的価値観を乗り越えようとする先進的な試みがさかんにおこなわれており、実際にある程度成功している実例だって存在している。
単に受験勉強が得意なだけで、現代の流動的な社会では使いものにならないような人(すなわち歩兵!)を量産する従来の学校教育の反省が、いま急速に求められるようになったのだ。
にもかかわらず、ここ宮古で、1980年代か90年代の東京に戻ったかのような旧態依然の学校教育が当たり前のようにまだおこなわれているのには、本当に驚くほかない。
なるほど、30年前が確かにまだ20世紀だった点を考えると、沖縄のそのまた離島である宮古で、いわゆる「学校的価値観」のなかで教育がおこなわれているのは、仕方がないこととして大目に見てやることもできるかもしれない。
ただし、そのせいで被害を受けるのは、ほかならぬいまの中高生たちである。
宮古で生まれ育ったとはいえ、いまの中高生たちは、いずれ島を離れる。
そしてその多くが東京や大阪などの大都市で生活をする。
そこでの生活は、あらゆる秩序が固定的な宮古とは違い、働き方も人間関係もかなり流動的である点に加えて、宮古では起こり得ないような不可測な事態に遭遇することも往々にしてあるがゆえに、まさに20世紀的価値観ならぬ21世紀的価値観がどこよりも強く必要とされる。
補足すると、21世紀的価値観とは、従来の学校教育ではなかなか習得できないような能力を指す価値観のことだが、大まかに言えば「思考力・判断力・表現力(発信力)・対話力(コミュニケーション力)・事態対応力」といったような、テストの点数では推し量ることのできない力の獲得に重きを置いている。
だとすれば、もし本当に、いまの子どもたちに、これからの時代をしっかりと生き抜いていく力を身につけてほしいと望むのなら、この「21世紀型能力」を学校教育の早い段階で身につけさせることが、本来ならば求められるはずではないのか。
にもかかわらず、いまだに「20世紀型能力」、たとえば単なる暗記ゲームに過ぎないような”記憶力”を競う形式のテストや、パターン化された数多くの問題を時間内に素早くこなしていく”事務処理能力”など、ITの発展やAIの進化あるいはグローバル社会の進展により、機械に取って代わられるような能力を身につけるための教育が、何の疑いももたれることなく平然と行なわれているというのは、これからの時代を生きる中高生たちにとって、どれほど役に立つというのか。
その危険性に気付いている宮古の大人はきわめて少ない。
皮肉なことに、宮古全島の小中学生がひたすら宿題や家庭学習に励んだり、あるいは宮古高校の生徒が大学合格の実績を近年どんどん伸ばしているのとは対照的に、世の中はまったく違う別の方向へと進んでいっていることを、当の小中高生たちも、そして学校や塾の先生ましてや保護者たちもまったく気づいていない。

(続く)

以前の非行少年といまのヤンキーの違い(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑥)

今回で、「宿題ばかりしているいまの子どもたち」と題した文章は6回目となる。
もうそろそろ終わってもいいころだと思うが、一度書き始めると、書きたいことが多すぎるのか、すぐに2000字近くになるため、一旦そこで区切ってUPすることにしたら、なかなか終わらせることができずに、結局同じテーマについてすでに5回も、延々と書き続ける羽目になってしまった。
2000字以上の文章をWEB上であまり書かないようにしているのは、それ以上は多くの人にとって読み飽きる長さになると考えているからで、何よりもまず僕自身が、一度に2000字以上もの長い文章を読みたいとは思わない(もちろんWEB上に限った話だが)。
だからなるべく、一つのエントリでだいたい2000字くらいと自分のなかで決めたうえで文章を書くことにしている。
と言っておきながら、ここまで書いてすでに330字を超えたため、さっそく前回の続きを書いていこうと思う。

前回書き切れなかった、僕ら世代の非行少年といまのヤンキーは似て非なるものだという点についてから、まずは始めていきたい。
分かりやすくまとめて言うと、以前の非行少年は学校内で肯定感を失わずに日常生活を送ることができていたのに対して、いまのヤンキーは肯定感を維持することがほとんど困難な状況に陥っているという点が、両者の相違を大きく際立たせていると僕は見ている。
これまで再三述べてきたように、その原因は、「学校化社会」が成立する以前に中高生だったのか、それとも成立後に中高生になったのかの違いに依っているわけだが、社会の在り方ひとつで、こんなにも個々人の実存が大きく左右されてしまう状況に遭遇すると、単に、世代間のギャップとして看過するわけにはいかないのではないか。
と、僕は考えているのだが、皆さんはどうだろう。

オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチの言葉を借用すれば、「価値の制度化」に基づく社会であるがゆえに、「学校化社会」は学力の二極化を招く。
少しだけ抽象度を上げて言えば、価値の制度化=価値の単一化=単一価値の絶対化が、その価値にそぐわない子どもたちを社会的に排除し、この排除作用が、ある特定の層に学校教育からのドロップアウトを実質的に強制する機能を果たしているのである。
単一価値の絶対化が生じる以前の社会では、当時の非行少年らは中間層に属していた。
下層(底辺層)に逃げ出したくなるほどに、ある特定の価値を押しつけられることがほとんどなく、したがって肯定感を維持した状態で学校生活を営むことができていたからだ。
しかし、いまのヤンキーたちはそうではない。
現在は、単一価値の絶対化が生じたあとの社会であるがゆえに、学校である特定の価値を押しつけられ、それに応えられない生徒は、「勉強ができない生徒」というレッテルを貼られ、そうして次第に肯定感が剥奪されていき、最終的には学校教育からの無言の強制退去を命じられる。
つまり、中間層から下層へと追いやられる。
ここに至るまでの過程には、もともと勉強ができなかった生徒が、より一層勉強できなくなっていくという悪循環が存在している。
逆説的に聞こえるかもしれないが、「学校化社会」の成立が、もともと勉強できなかった生徒の学力をより一層押し下げていくという悪循環が、ここにあるのである。
肯定感を与えてもらえない場所で、頑張る意欲を維持できるほど、子どもたちが非人間的であるはずがない。
そう考えると、単一価値の押しつけが、結果的に子どもたちの意欲を剥いできたことは言うまでもないだろう。

塾の現場に立つときに、まったくと言っていいほどやる気の感じられない生徒にたまに遭遇するのだが、そのあまりのやる気のなさに少々面喰ってしまうことがある。
そこで注意深く彼らを観察してみると、10代にしてすでに何かを諦めたかのような表情をしており、単に勉強に対してやる気が感じられないだけでなく、日常生活そのものに対するやる気がまったくと言っていいほど感じられない。
申し訳ないが、お世辞にも、彼らは日常生活が充実しているようにはとても見えず、その姿に自然と虚しさを覚えてしまうのは、決して僕だけじゃないはずだ。
しかも、そういう生徒に限って、中3になっても、正負の計算など、中学生なら解けて当たり前の問題がまったく解けなかったりすることが往々にしてあるからとても驚いてしまう。
小1から毎日1ページの家庭学習を義務付けられてきたにもかかわらずである。
以前の非行少年と違い、いまのヤンキーたちの悲惨さは、単に違法行為を重ねる点にあるのではなく、このように、中間層としては生きられないほど著しく学力が低い点にこそあるのだと言っていい。
その原因の一端が「学校化社会」にあるのだとしたら、「学校化社会」とは一体誰に恩恵をもたらしたのか。
その恩恵は、同じ現象の光と影の片方に属する「高学歴化」した中高生にもたらされたのだろうか。

(続く)

「学校化社会」が生み出したヤンキーたち(宿題ばかりしているいまの子どもたち⑤)

前回は、僕の生まれ故郷である宮古でも「学校化社会」が急速に浸透してきたことの結果として、一見逆説的に見えるかもしれないが、学校教育をドロップアウトする人たちが増えているのではないかと書いたところで話を終えた。
このような社会が成立すると、学校の内でも外でも、いわゆる「学校的価値観」でしか評価されなくなるため、勉強ができない生徒は肯定感を与えてもらう機会を失ってしまい、その結果、学校を居場所だと捉えることができなくなり、そして次第に学校教育から遠ざかっていく羽目になる。
単一の価値基準しか持たない「学校化社会」(オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチの言葉では「価値の制度化」)は、それまでの社会と比べて多様性を失い、勉強ができる人とそうでない人との間にある学力差を、動かしがたい断絶として曝しあげ、上位層と下位層への二極化を、徐々にではあるが、しかし確実に推し進めていく。

宮古の中高生たちと塾の現場で接するようになってから教えてもらったことのうちのひとつに、中卒でそのまま高校に進学せずに土方をやったり居酒屋で働いたりと学校教育からドロップアウトする同級生が少なからず周りにいるという話があった。
ほかにも、高校には進学したものの、1年か2年そこらで中退したあと、仕事しているのかいないのかよく分からない若者たちが、数人で125ccのバイクを乗り回している姿を、街中で見かけることだってたまにある。
しかし、果たして彼らは本当に、「勉強ができずにグレた若者」として、批判されるべき対象なのだろうか。
どうも僕には、彼らが「学校化社会」の歪みから生み出されたように感じられて仕方がないのだ。
ここでひとまず、彼らのことを「ヤンキー化」した若者と定義し、もっと簡潔に「ヤンキー」と呼ぶことにしたいと思う。
というのも、勉強ができる生徒たち、もしくは勉強が特にできるとは言えないが、しかしグレる方向には走らなかった生徒たちが、勉強ができずにグレる方向に走った生徒を一般化して呼称するとき、いまの宮古では、ほぼ間違いなく「ヤンキー」と呼ぶからだ。
たとえば、

A「そういえばあいつ、この前酒飲んでて警察にバレたってよ」

B「うわりヤンキーだな!」(=「めっちゃヤンキーだね!)

などと、いまの中高生たちは会話するのだが、ここには、勉強ができずにグレる方向に走る彼らとそうでない僕らとでは、生きる世界がまるで違っているという意識が少なからず存在していると思われる。

僕が中高生だった当時、「ヤンキー」という言葉を使う人は、宮古には滅多にいなかった。
なぜなら、宮古高校理数科の生徒であろうが工業高校の生徒であろうが、生きる世界が違っているという認識のうえで高校生活を送っている人などほとんど皆無だったからだ。
当たり前だが、タバコを吸ったり酒を飲んだりと、法から逸脱する少年少女たちはいつの時代にだって存在する。
「学校化社会」(すなわち監視社会!)の浸透により、以前と比べれば減ってきたものの、酒やタバコなどの違法行為を行なう中高生が一定数いることは、いまも昔も変わらない。
ただ、僕ら世代の非行少年たちは、学校教育をドロップアウトしなかったし、そして何よりもヒエラルキーの最上層にいた。
前回書いたように、「学校化社会」成立以前の社会では、学校教育をドロップアウトするくらい疎外感を抱くほど、否定的な感情を学校に対して持つことはあまりなく、「学校的価値観」以外の価値観や能力が尊重されていたがゆえに、勉強ができるできない程度の問題は、そこまで重要なものではなかったからだ。
だからこそ、彼ら非行少年たちと勉強ができる生徒たちの間に埋めがたい断絶が存在しているなんてことはあり得なかった。
その証拠に、僕の世代では、宮古高校の生徒と工業や農高などの専門高校の生徒が男女の交際をしたり、あるいは成人したのち結婚したりするケースがけっこう普通にある。
しかし、いまの中高生に、このようなケースが現在でも当てはまるのかどうか尋ねてみると、おそらくは「ほとんどない」と答えるのではないだろうか。
そう想像したくなってしまうほど、いまの中高生のなかでは、勉強ができる生徒とそうでない生徒との間にある壁が、越えがたいほど高いものになっているのだと思わざるを得ない。
これを「学校化社会」の典型的な例と呼ばずして何と呼べばいいのだろう。

先ほど、「ヤンキー」という言葉には、「自分たちとは違う世界に生きる人たち」という認識が少なからず込められていると述べた。
「学校化社会」の到来と時を同じくして、この「ヤンキー」という言葉が中高生たちの間で使われるようになったのは決して偶然ではない。
「中間層の没落」とまでは言えないにしても(以前の非行少年少女たちは中間層に属していた)、勉強ができる生徒と学校教育をドロップアウトするほど勉強ができない生徒とでは、明らかに生きる世界が違っているのだと、当の本人たち、つまり、いまの中高生たちが無意識のうちにでも感じているからこそ、「ヤンキー」という言葉は、ここ宮古で当たり前のように使われるようになっていったのだ。
このように考えてみると、東大合格者も「ヤンキー化」した若者も、「学校化社会」から生み出されたという意味では、同じ穴のムジナなのかもしれない。
もし、この表現が不適切なのであれば、両者は「同じ現象の光と影の関係」にあるのだと言い換えてもいい。

(続く)

「学校化社会」について(宿題ばかりしているいまの子どもたち④)

前回は、「家庭学習の義務付け」に象徴されるような、学力向上のための教育的施策が島全体を通して積極的に行なわれてきた結果として、大学合格の実績が伸びてきた反面、その裏で学校教育をドロップアウトする人の数も増加してきているのではないかと書いたところで話を終えた。
①から③まで書いてきて、どんどんタイトルと内容がずれていっているような気がしないでもないが、このまま話を続けることにしたい。

というのも、「宿題」という小さな事象を取り出してきて初めて見えてくる大きな事象というものがあり、むしろそちらに目を向けるための気づきを与えることをひとつの目的とした上で、この文章を書いているからだ。
物事の本質は、得てしてその存在が隠されていることが多い。
それはなかなか人目につくことがなく、僕らには基本的に本質から派生する表層の部分しか見えてこない。
ただ、一回立ち止まって「それは一体どういうことだろう?」と思考を巡らせてみて初めて物事の本質に触れられるようになり、そして本質にたどり着いた後にようやく根本的な解を導き出せるはずだと僕は考えている。
だからこそ、ここまで長々と文章を書き連ね、当初の出発点だった「宿題」という小さな事象の枠組みをはみ出して、より大きな問いを提示できるよう努めてきたのだが、では、ここで言う”物事の本質”とは一体なんなのか。

それは、一口に言えば「学校化社会」についての問いのことを指す。
僕はこれまで「宿題」を切り口としながらも、明言せずとも常にその背後で「学校化社会」という、より普遍的な問いに通じるような説明の仕方をするように心がけてきた。
「学校化社会」とは、オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』のなかで提唱した概念だが、簡単に説明すると、学校で良しとされている”学校的価値観”が広く蔓延した社会のことを指し、たとえば成績の良し悪しや(先生に従順するような)品行方正な態度など、学校内でしか本来通用しないはずの価値観が、学校の外に大きく広がっている実社会においても、その人をはかる重要な価値基準として適用される社会だと定義できる。
こう言ってよければ、「単に勉強が得意なだけで役に立たないお利口さん」が威張ることができる社会を「学校化社会」だと端的に表現していい。
このような社会が成立する以前の社会では、成績が良いとか悪いとか学校内の価値基準は、いったん学校の外に出てしまえばあまり影響力を持たず、どちらかと言えば、勉強以外の能力、たとえば、機械いじりが得意だの音楽や映画に精通しているだの、テストの点数には左右されない能力のほうが、その人を判断する際により重要な位置を占めていた。
それだけでなく、学校内においてさえも、勉強ができるかどうかよりも、それ以外の要素のほうが、学内で存在感を発揮する際により大きな役割を果たしていたのだ。
社会学者・宮台真司先生の麻布中高時代の話とも似ているが、当時の宮古には、ギャグマンであるとか、顔が広いとか、ちょっと変わった特技があるとか、そういった勉強以外の能力で秀でている人が尊重される風土が存在しており、評価基準として、「勉強ができるかどうか」は二の次だった。
つまり、勉強ができない生徒にとっても、学校は、肯定感を育むことができる場所として機能していた。
しかし、「学校化社会」が成立するや否や、そういった能力が評価されるのではなく、「勉強ができるかできないか」、ただこの一点だけで子どもたちが評価されるようになってしまったのだ。
その結果、勉強ができない生徒は、学校の内でも外でも良い評価を受ける機会が激減し、社会のなかで次第に居場所を失っていく。

ここでようやく前回の内容と話がつながってくるが、この「学校化社会」が、宮古でも近年急速に浸透しているのだと考えると、「学校行くの疲れた」とこぼす小中高生たちが増加しているように見える理由、そして義務教育終了と同時に学校教育をドロップアウトしたり、あるいは高校に進学したものの途中で退学したりする生徒が増えているように見える理由が、少し分かってくるのではないだろうか。
肯定感を与えてもらえないような場所に好きこのんで行きたいと思う人など誰もいない。

(続く)