砂川ひろのりの日記

政治・経済・社会批評について

教育的適性の高い生徒をすくい上げるための貧困対策事業(貧困問題と学習能力の相関性⑤)

知識社会は、知能の高い人が富み、知能の低い人が貧しくなるような社会構造になっている。
そのような社会で貧困に陥らないようにするには、知能が少しでも高くなるよう学力を上げるために勉強したいと考え努力するのが、生き残るための道として一般的に思い浮かぶ

しかし、ここまで繰り返し見てきたように、いくら努力しても学力が上がらない生徒が一定数存在するのは行動遺伝学的に証明されている。
であれば、本来取るべき対策として効果的なのは、遺伝行動学の研究成果を受け入れて、遺伝的に学力の向上が望めない生徒であっても、貧困に陥らないよう社会設計を整えることにあるのではないだろうか。

現在沖縄県内の各自治体で実施されている貧困対策事業は、残念ながらこれとは別の方向に進んでおり、貧困世帯であれば誰彼かまわず対象者として無料学習塾に受け入れ、事業実施前と比べ、受け入れた生徒の学力がどう変化したのかきちんと数値化しないまま、ただただ学習機会を無料で提供しているだけの状態になっているのが実際のところである。

志望校合格では判断できない貧困対策事業の成果

この場合、残念ながら合格実績は当てにならない。
各生徒が志望校に合格しているという動かしがたい事実が何よりの成果だと主張したくなる向きも意見として分からなくはないが、とはいえ、数値化されていなければ、その成果が本当に貧困対策事業のおかげなのかどうかは分からず、したがって成果を上げたと結論づけるのはあまりに勇み足が過ぎるだろう。
というのも、貧困対策事業に関わっていてもいなくても志望校に合格していたかもしれないからである。*1

多額の税金を投入して実施されることを考慮すると、成果が目に見えない事業が延々と継続されていくのは国民的な感情として納得しにくいものとして映るのは避けられない。
国民が納得できる成果と呼ぶに値するには、たとえば学内の席次が78番から45番に上がったり、あるいは数学の定期テストの点数が64点から78点に上がったりといったような誰が見ても明らかな数値として提示できるものである必要があり*2、それができないうちは、たとえ志望校合格という生徒本人にとっては一番重要なものであっても、貧困対策事業の成果としてカウントするのは、多額の税金を投じて実施される以上適切ではないと考えるのが筋である。

成果の不確かなものに対して税金を投入していいのであれば、事業を請け負う業者の側にモラルハザードが生じやすく、何とでもごまかしが効く抜け穴を作ることができてしまうことになる。
本当に成果が出ているのかどうかきちんと可視化し、国民にとって納得がいくようなものにしていくには、徹底的に数値化する以外のほかに方法はない。

学力が伸びる素質がある生徒とそうでない生徒

この数値化をおこなえば明らかになると思うが、たとえ無料で学習機会を提供したとしても、学力が伸びる素質を備えた生徒とそうでない生徒とでは、学力の向上に大きな隔たりがあることが鮮明に浮き彫りにされるはずである。
遺伝的に教育に適性がないために学力が上がりにくい生徒の場合、事業成果のうちに数えられるだけの学力向上を達成できる割合は、そう高くない。

そう言えるだけの理由を、前回までの記事で詳述してきた。

①記事目で書いたように、中学に入学した直後に習うはずの数学の問題を受験間近の生徒にどれだけ丁寧に教えても、その場では理解しているように見えたにもかかわらず、次の日にはきれいさっぱり解き方を忘れているといったようなケースが、貧困対策事業のために設置された無料学習塾に通う生徒には本当に多かったという事実を考慮すると、遺伝と学力のあいだには密接な関係性があるのだと考えないわけにはいかない。
一般家庭の生徒が授業料を払って通う塾や予備校では、このような光景があまり見られなかっただけに、なおさらである。

ここ数年の自身の経験を土台とし、それに加えいろんな文献に触れるなかで現在いたった結論は、前回までの記事で論理立てながら述べてきたように、遺伝的に教育に適性がないために学力が上がりにくい生徒が一定数おり、知能格差が経済格差にそのままつながる現代の知識社会では、学力が低いことで貧困に陥りやすくなっている構造が存在している、という常識的な感覚では受け入れがたい結論である。

したがって、貧困対策事業として無料で学習機会を提供したとしても学力に変化の見られない生徒がいるのはまったく不思議なことでも何でもなく、適切な事業成果を上げるためには、むしろこの事実を前提に置いて出発する以外の方法は実を結ぶことが難しいと考えたほうがいいとさえ言える。

入塾テストでフィルタリングをかけた貧困対策事業

それでは、どのような方向性に変えていけば、現在の貧困対策事業をより望ましいものにしていけるだろうか。
実はきわめてシンプルなルールをひとつ取り入れるだけでいい。

学力が伸びる素質を備えた生徒かどうかを入塾テストで判断し、その素質を備えた生徒のみを無料学習塾に受け入れる制度を導入してフィルタリングをかけるのである。
たったこれだけで、成果が目に見えない現在の貧困対策事業の在り方を望ましい方向に大きく変えていけるはずだ。

繰り返すが、成果の期待できないものや効果の乏しいものに対して多額の税金を投じるのは国民感情に反する。
それどころか、危機的な財政債務を抱える現在の国家状況においてバラマキ的に税金を使うのは国家の危機をさらに助長することにもつながりかねない。

税金とは国家運営をしていくにあたり全国民にとって効果が大きく期待できる事業にのみ使用することが原則であり、だとすれば、学力が伸びる素質を備えた生徒のみを入塾テストで抽出するために制度を整えることは、正当性がある取り組みだと言えるのはではないだろうか。

もう一度繰り返すが、総体的に見た場合、貧困世帯の小中学生の学力は一般家庭の生徒と比べて低いことがさまざまなデータから明らかにされている。
この事実をまずきちんと受け入れたうえで、割合としては少ないものの、貧困世帯のなかでも学力が伸びる素質を備えた生徒を入塾テストで抽出する。

貧困対策事業を通して学習機会を無料で提供すべきなのは、本来彼らのような潜在的に優秀な生徒に対してである。
優秀と書いたが、そうとまでは言えなくても一定水準以上の学力を有していれば、対象生徒に加えて全然問題はない。

一定水準以上とは厳密にどのあたりのラインなのか線引きできるのかと問われれば確かに厳密には難しいのかもしれないが、とはいえ、数年現場に立った経験のある人であれば、素質のある生徒とそうでない生徒を見分けるのはそう難しいことではない。
要は、学力がいま以上に"格段に"伸びるために必要な最低ラインの学力というのが存在しており、この最低ラインをクリアしているかどうかを入塾テストで見極めて、学力が伸びる素質を備えた生徒を抽出できればそれでよいのである。

むろん、一定水準以上の学力を有する生徒のみを受け入れる場合であっても、どれだけ学力が伸びたのか徹底的に数値化する点については変わりない。

学習機会が十分に確保されているとは言えないケース

以上の主張を聞いて、前々回の主張と矛盾した話をしていると感じた人がもしかしたらいるかもしれない。
というのも前々回のエントリで、ぼくは、義務教育課程のなかで学習機会は十分に確保されており、公立高校に合格するために必要な学習機会は学校の授業だけで基本的には足りていると述べたからだ。

だとすれば、学力が伸びる素質を備えている生徒もそうでない生徒も、わざわざ無料学習塾に通う必要性はどこにもないように見える。
これでは、貧困対策事業そのものの存在意義が失われて、一体何のためにここまで議論を積み重ねてきたのかまったく分からなくなってしまうだろう。

しかし、実際にはそうではない。
学力が伸びる素質を備えているにもかかわらず、貧困世帯で暮らしており経済的な余裕がないために塾や予備校に通っていない生徒のケースを想定してみよう。

もし彼が塾や予備校に通っていれば、現時点での志望校よりも1ランク上の学校に志望校を変更することが可能だったかもしれない。
貧困が原因で経済的な余裕がないために、「泣く泣く」あるいは「仕方なく」もしくは「無意識のうちに」でも、現実的に合格可能な学校を志望校として選定したのかもしれないのである。

このケースの生徒の場合、無料で学習機会を提供しさえすれば、思う存分勉強をし、そして1ランク上の学校に合格できるようになるまで学力を上げてくれることが大いに期待できる。
彼には、期待してよいと言えるだけの"素質"が備わっているのだ。

たとえ公立高校であっても、志望校のレベルが高くなればなるほど、1点の違いが明暗を分けることになるため、学校外での勉強時間をどれだけ確保できたか、そしてその時間のなかでどれだけ質の高い内容を勉強したのかがきわめて重要になってくるのは間違いなく、したがって貧困対策事業を通して無料で学習機会を提供することは、このケースの生徒にとっては、特に重要であると考えられる。

忘れてはならないポイントは、遺伝的に教育に適性があり学力が伸びる素質を備えているがゆえに、"確実に"学力が伸びる可能性が高い生徒に学習機会を提供できるかどうかなのだ。*3
貧困世帯で過ごす生徒であっても、このポイントを持っているか否かによって、貧困対策事業の対象者として扱っていいのかどうか分けて考えるべきである。

自己責任論を押しつけ自己肯定感を失わせないために

誤解されては困るから付記しておくが、ぼくは、学力が伸びる素質を備えていない生徒に対して何も対策を打つ必要はないと言っているのではない。
前回の最後のほうで伏線を張っておいたように、貧困問題を安易に教育で解決しないほうがいいと言っているのである。

強調しておきたいのは、遺伝的に教育に適性がなく学力が伸びる素質を備えていないのに、努力すれば必ず学力が伸びると間違った教えを説いて生徒に過度な負担をかけ、最終的に学力が伸びなかったら自己責任として罪をなすりつけ、次第に自己肯定感を失わせていくような方向に知らず知らずのうちに仕向けているのが、貧困対策事業を実施するさいの(そして、それだけでなく多くの人が抱いている)学力観の誤りであるということだ。

このような弊害を起こさないためにこそ、認めたくはない話であろうとも実証的に導き出されている以上、行動遺伝学の研究成果によって明らかになった新たな学力観に基づいたアプローチを取ることの重要性を理解すべき時期がやってきているのではないだろうか。
次回、学力が伸びる素質を備えていない生徒の場合はどうすればいいのか、教育的解決に頼らない方法を考えてみたい。

(続く)

参考までに、「沖縄子供の貧困緊急対策事業」のアウトラインが描かれた資料(出典:内閣府)

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*1:もし、合格実績を事業成果にしたいなら、受験までに複数回模試を受け合計点や各科目の点数の推移をグラフ化し、受験本番では最終的にどの程度点数が伸びたのかを数値化しなければならない。

*2:厳しいようだが、席次や点数の伸び幅が誤差の範囲内にあるものは成果としてカウントできない。

*3:もう一度注記しておけば、学力の伸び幅が誤差の範囲内に収まっていないよう気をつけることも忘れてはならない。

逆に「学力が低いから貧困に陥りやすい」となら言えるのはなぜなのか:知識社会の視点から(貧困問題と学習能力の相関性④)

「貧困が原因で学習機会に恵まれていないがために学力が低い」のではない。
貧困か否かを問わず学習機会はきちんと確保されており、その学習機会を提供する義務教育はひとまず正常に機能している。
学力の低さは、貧困問題に還元するよりも"遺伝と学力の因果関係"の問題として捉えたほうが正確に把握できる。
なぜなら"遺伝と学力の因果関係"は統計的に証明されているからだ。

以上が前回までの考察の結果明らかになったいくつかの事実になるが、効果的な貧困対策事業についての具体案を提示するには外堀を埋める作業がもう少し必要になってくるため、今回も引き続き慎重に議論を積み重ねていくことにしたい。
「貧困だから学力が低い」という因果関係は間違っているか、そうでなければ少なくとも短絡的=擬似相関であり、むしろ統計的に証明されている"遺伝と学力の因果関係"を前提に置いて出発すべきなのは分かった。

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「「貧困だから学力が低い」のではない」と言えるのはなぜなのか:教育基本法第5条の視点から(貧困問題と学習能力の相関性③)

前回は、行動遺伝学の研究成果によってIQや学業成績あるいは収入にいたるまで遺伝の影響を強く受けている領域が(一般的にイメージされているよりも)広く多岐にわたることが判明していると書き、このように学力と遺伝の因果関係が統計的に証明されている以上、税金を投入して貧困対策事業を実施するさいには、この事実を前提に置いて議論すべきじゃないだろうかと話を締めくくった。

前回注意を促したように、今回もまた、「貧困対策事業」といえば、塾や予備校に通うお金のない世帯で生活する小中学生のために、学力格差を改善するべく、自治体が税金を充て無料で学習機会を提供する事業のみを指すことに限定する。
この限定がなければ、本論の正当性や妥当性がほぼすべて崩れてしまうため、その都度折を見て注記していく。
高校生すなわち大学受験生については事情が少し異なるため、小中学生と切り離して別途書く。

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行動遺伝学の研究成果をもとにした新たな学力観(貧困問題と学習能力の相関性②)

総体的な話として、一般家庭の生徒と貧困世帯の生徒とでは、同じ量の努力をしたとしても、学習能力と学習意欲のあいだに埋めがたいほどの差が歴然と存在すると前回書いた。
受験を間近に控えた中学3年生にもかかわらず、中学入学直後に習うはずの正負の足し算と引き算の解き方が理解できない生徒がおり、この生徒ほどではないにしろ、同じくらい数学の勉強ができない生徒も一人や二人ならず存在すると知って驚いたのはもちろんのこと、いままで教えていたような一般家庭の生徒ばかりが通う学習塾での状況とはまったく様相が違っていただけに、貧困問題と学力レベルを関連づけないわけにはいかなかったのである。

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貧困問題と学習能力の相関性①

教育から離れて2ヶ月ほど時間が経つが、来月から大幅にキャリアチェンジをするにあたって教育について最後に書けることは書いていこうと思い、キーボードを叩いている。
地元宮古のとある学習塾が、市から業務委託される形でスタートさせた「市の子ども貧困対策事業」の教室責任者として、今年1月から6月までの約半年間、貧困世帯に属す小学1年生から中学3年生までを相手に、学習指導や生活指導をおこなった経験がある。
当初は、この事業とは別の予備校業務に携わり、一般家庭の高校生を相手にするつもりで働くはずだったのが、貧困対策事業のほうが人手不足であったために、急遽こちらのほうに回ることになった。
これまで小学生を相手にした経験もなければ、むしろどちらかといえば、仕事では相手にしたくないと思っていただけに、正直なところ、引き受けることにためらいを覚えたものの、背に腹は変えられないというか、当時のぼくは一刻も早く宮古を出るために早急にまとまったお金が必要だったこともあり、多少の不安を持ちながらも、この仕事を引き受けることにした。
宮古に帰ってきてからの数年間に担当した教え子は、貧困世帯出身ではなくて、基本的には一般家庭の子どもたちであり、確かにそのなかには貧困世帯に近い子もいたとはいえ、しかしその多くは経済的にそこまで問題のない家庭で育った子どもたちだった。
今回、本意ではないにしろ、ほとんどすべての対象生徒が貧困世帯にあたる子どもたちを相手にすることになったのは、ある意味良かったのかもしれない。
というのも、見ようと思わなければ素通りできたはずの問題に、偶然にも関わらなければいけなくなったおかげで、ほぼ初めて肌感覚を通して、貧困問題について考えるきっかけを与えてもらったからである。
しようと思ってもなかなかできない体験だっただけに貴重な体験になったのは間違いない。

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